聖書は救われたことを別の表現で「召された」と表現している。それは特権であるとともに、責任があることを教える表現である。1節をご覧ください。パウロは牢獄にいて、文字通り囚人であったわけだが、パウロは自分を「主の囚人」と紹介することによって、囚人ということばの意味を良きものに変えてしまっている。それは特権であり、主に召されたしもべという地位を与える。パウロは続いて、「あなたがたに勧めます」と言っているが、「勧めます」ということばは、「よかったらどうぞ」ということばではない。「勧告します」と訳したらより良いかもしれない。それは強い願いを意味することばである。勧告の序文は、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」。実はエペソ人への手紙は1~3章が第一部、4~6章が第二部。1~3章までは、神から受けた恵みのすばらしさを教えている。私たちが世界の基が置かれる前から神の子どもとして選ばれていたこと、キリストの十字架の贖いによって罪赦されたこと、神の家族とされたこと、すばらしい天的望み、栄光の相続財産をいただいたこと、キリストのからだの一部とされたこと、人知をはるかに越えたキリストの愛によって愛されていることなど。では、神から受けた豊かな恵みに対して、どう応答したらいいのか。恵みには責任が伴う。神から受けた恵みを自覚して、召しにふさわしく歩みなさいということである。

では、召しにふさわしく歩むということはどういうことなのだろうか。それは、ただ一個人として頑張ることなのではない。パウロは「召しにふさわしく歩みなさい」という時に、私たちを単に一個人として見ているのではなく、キリストのからだなる教会という一つの共同体の一員として見ている。それがわかるのが3~6節。3節では平和の絆で結ばれた「御霊の一致」が勧められており、4~6節では、「一つ」ということばが七回も登場する。なぜここまで「一つ」を強調するのだろうか。すでに学んだように、対立感情が激しく、水と油の関係にあったユダヤ人と異邦人が、等しく教会の一員とされた。互いにキリストの愛によって。3章の後半では、キリストの愛をキーワードとするパウロの祈りがささげられていた(14~21節)。パウロは、エペソの教会の人々がもっとキリストの愛を知るように、そしてそれにならうように祈っている。キリストの愛にならうとは具体的にどうすることなのだろうか。愛において成熟した歩みとはどういうものなのだろうか。互いに愛し合い一つであることを体現していくことになるのではないだろうか。パウロはこの一致のために、必要な徳を四つ取り上げる。今日はそれらを見ていこう。

第一に、謙遜(2節)。謙遜がなければ対立感情は解消されない。「謙遜」<タペイノフロスネー>は「低い」と「思い」の合成語である。意味は「低い思い」「低い心」となろう。謙遜は美徳と言われるが、実は古代においてはそうではなかった。ギリシャ人にもローマ人にも謙遜という概念はなかった。それは気の弱いこと、臆病なことと取り違えられていた。だから、それは嫌悪の情をもよおさせるものであった。この用語は、卑しさ、臆病、意気地なしと同等に受け取られ、変人に適用されるものであった。教会が誕生して初期の時代、ギリシャ人、ローマ人たちは、タペイノフロスネーは彼らにとってみじめな弱さしか意味しえないため、そのことばをクリスチャンたちをさげすむために、しばしば用いたと言われている。当時の美徳は、自己主張、誇り、そして強さ、りっぱさを見せつけることであった。しかし、クリスチャンたちの働きによって、謙遜が美徳として理解されていくようになる。けれども時代を通じて、世が常に高めようとするのはプライドであって謙遜ではない。人は自分の何かを誇り、自己を膨らませる。社会は目立った何かをする人を、認め、ほめる。交渉のうん蓄として、誇示すること、見栄を張ることは常である。謙遜は自己を誇示する手段とされ、そのスタイルだけ利用される。謙遜であることを見せて、自分を高めようとする。

謙遜の反対は言うまでもなく高慢である。その代表格が悪魔である。自惚れに陥った一人の天使が神に敵対し、神のようになろうとして地に投げ出された。天使ルシファーの堕落物語である(イザヤ14章12~23節、エゼキエル28章11~19節)。また人類最初の罪も高慢であった。アダムとエバは、神のようになりたいと高ぶった(創世記3章5節)。箴言には「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(16章18節)とある。すべての罪の根は高慢にあると言ってよい。高慢は神と張り合い、自分に栄光を帰そうとする。そこから様々な罪が生じる。罪の中で、最後までなかなか取れないのが高慢だと言われる。

私たち人間にとっては、謙遜は四つのことを意味すると考えることができる。一つは、自分の罪人としてのありのままの姿を神の前に認めることである。だから、謙遜な人は自分の罪を神の前に正直に告白することが習慣となるだろう。そして、その罪の解決を主イエスにゆだねるだろう。前回、3章17節の「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」から、心の家の主人はキリストであることを学んだ。どの心の部屋もキリストに明け渡してしまわなければならない。心のダイニングルームに喜ばれないメニューがあれば、別のものに変えていただく。リビングルームに交わるべきでない対象があれば、追い出していただく。汚れた部屋は片付けていただく、きよめていただく。見せたくない押入れも開けて、古いものを捨て去るのを手伝っていただく。すべてにキリストの平和が宿るようにする。イエスさまを部屋に入れないように、また隠そう、隠そう、という姿勢は何もなさない。ある女性の話であるが・・・「私の中の傷ついている部分に、イエスをお迎えしなければならないことがわかってきました。お酒を止めようと決心する時、自分の力で解決できないような気がして、イエスを近くに感じていても、自分の悪い部分を隠そうとしていました。でも、やっと、自分の壊れた部分に、イエスをお連れすべきだということがわかりました。それからの私の祈りは、自分の暗い部分を隠すのではなく、それをあらわにして、『イエスよ、来てください。自分の負ったこの傷のところに来てください』というものになりました」。これが謙遜のなせるわざである。

二つ目は、自分は神の前に土くれにすぎず、神の恵みによって生かされているにすぎないことを認めることである。すべては神の恵みなのである。神の恵みを恵みとできる人が謙遜なのである。神の恵みを恵みとすることは、繰り返しお話してきた。

三つ目は、人を自分よりもすぐれていると思うことである。自分を持ち上げる精神は人を見下す。そして裁く。平和の絆で結ばれようがなくなる。パウロはピリピ2章3節で言っている。「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」。

四つ目は、心を低くして人に仕えることである。これはキリストご自身の生涯に見られる。謙遜の最大の模範は、主キリストである。ピリピ2章6~7節で、キリストは神のあり方を捨てることはできないとは考えないで、ご自分を無にして仕える者の姿を取り、当時、最も卑しい場所とされた十字架にご自分を引き渡されたことが記してある。十字架はよく愛のシンボルと言われるが、謙遜のシンボルとも言えよう。十字架刑の前にイエスさまは、奴隷の仕事であった、足洗いと足拭きを弟子たちに対してされた。弟子たちがこの中で誰が一番偉いかと論じあっていたような時にである。イエスさまは裏切るユダの足さえも洗った。イエスさまは黙々と謙遜の模範を示された。地上に生きた人格の中で、イエスさまが一番低い心をもっておられた。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいにやすらぎが来ます」(マタイ11章29節)。

徳の第二は、柔和(2節)。「柔和」<プラウテース>は謙遜の同義語である。それは復讐心、仇討精神とは反対の、マイルドな精神、自己を制御する心である。もともとは飼いならされた野生動物に用いられたことばである。その動物の意志は主人のコントロールもとにある。その動物は力と活力があるが、無鉄砲ではなく、トレイナーの制御のもとにあり、賢い動きを見せる。プラウテースの特質がある人は、自己主張したり、いらだちを表わしたりしない。怒っても、ずっと怒ったままでいて罪を犯すことはしない。自制が効いている。自己制御が効いている。箴言25章28節には「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」とあるが、これが柔和と反対の姿である。

柔和の最大の模範は、やはり、キリストである。キリストは言われた。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいにやすらぎが来ます」(マタイ11章29節)。ここで「心優しく」<プラウス>の別訳が「柔和で」となる(新改訳2017)。柔和な人は心優しい。

柔和な人は当然、トラブルメーカーとはならない。ピースメーカーとなる。その人はもし誰かが過ちに陥ったのなら、柔和な心で正そうとする。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」(ガラテヤ6章1節)。

徳の第三は、寛容(2節)。「寛容」<マクロースミュア>は、「忍耐」とも訳せ、「長い」と「忍耐」の合成語である。それは気が長いことを意味する。長い忍耐である。聖書の物語を読むと、神の人間に対する態度がまさしくそうであることがわかる。旧約聖書にはイスラエルの民の歴史があるが、がんこでかたくなで、恩知らずで、なかなか罪から離れられなくて、天に向かってつばを吐くような者たちを、神は忍耐をもって導いていかれる。私たちは自らの姿を顧みてもわかるが、神は寛容であると気づく。愚かで、とろくて、道を踏み外すこと多くて、いつまでたっても同じ失敗を繰り返し、すぐにあわてふためき、なかなか信頼できなくて、成長が遅い。けれども見捨てずにいてくださる。キリストの弟子たちに対する忍耐がそうだった。<マクロースミュア>は、長い忍耐、根気強い忍耐、粘り強い忍耐、愛の忍耐である。

ディビッド・リビングストンという有名なアフリカ探検家をご存じだろう。彼のもともとの仕事は宣教師である。1871年のこと、スタンレーという未信者が、リビングストンの働きをレポートするためアフリカに出かけた。彼は数か月間、リビングストンと彼の働きを注意深く観察した。リビングストンは彼に信仰の話は特にしなかったという。スタンレーが驚いたのは、アフリカ住民に対するリビングストンの愛と忍耐だった。それは想像を超えるものがあったという。スタンレーは、あれほどまでの愛と忍耐を、どうして長い間にわたって異教の人に示すことができたのか理解できなかった。彼はそこに人間を越えたものを感じ取るようになる。スタンレーは帰国後、旅行誌(ジャーナル)にこう書いた。「私は、根気強い忍耐、衰えない熱心、そして教え導かれたアフリカの住民を見た時に、リビングストンは私に一言も話さなかったけれども、私は彼のそばでクリスチャンとなった」。

徳の第四は、耐え忍ぶ愛(2節)。「愛をもって互いに忍び合い」を積極的な言い換えをすると、「相手の欠点やいやな所も愛でおおってカバーしてしまう」ということになる。つまり、欠点やいやな所なんか見えないかのように相手に接する。相手に欠点やいやな所なんてないかのように接する。実際、キリストは、嫌われ者の取税人や罪人と言われる人たちに対して、そう接した。

つけ加えておくが、この愛を持たない人は、相手の欠点やいやな所を愛でおおってカバーしてしまうどころか、相手のあら捜しをして、悪口、中傷を言い、ばらまきに出てしまう。歩く週刊誌となって、ゴシップをばらまく。箴言25章9節には「あなたは隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない」とある。

以上見てきた四つの徳が、3節以降にあるように、平和へと導き、一つという関係を実際に築き上げる。育ちも文化も人種も違う、性格も違う、個性は様々。生活習慣の好みもまちまち。おまけに、一人一人が弱さをもち、欠点がある。だけれども、一人一人がキリストのうちにある。キリストの十字架の愛で愛されている。その愛にならうことが求められている。私たちは、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さをさらに知ることを求める過程の中で、これらの愛の徳を身につけ、一つのコミュニティとして生きることを実践していきたい。

今日は四つの徳を中心に見たが、一番強調したい徳は、謙遜である。パウロもこの徳を一番目に挙げている。謙遜はクリスチャンのあらゆる徳の基礎となるものである。この世の価値観は、上へ、上へ、もっと高く、高く。けれども、聖書は、また御霊は、下へ、下へ、低く、低く、と私たちを導こうとする。頭をガツンと叩かれ、謙遜にさせられる体験も味わうことがある。それも恵みである。私たちはすぐ調子に乗ってしまう。私たちは高ぶるに早く、謙遜になることには遅い者たちである。これからも神さまの助けをいただいて、謙遜を学習し、お互いにキリストの姿にならっていこう。