イエス・キリストは「わたしのところに来なさい」と招いておられる(28節)。原文で冒頭に来ている文は「わたしのところに来なさい」である。皆さんは、この招きにどう応えられるだろうか。キリストのすばらしい人格を思う時に、この招きを拒む理由はどこにもないと思う。キリストは永遠のいのちをもっておられるお方、永遠の神、永遠の愛そのものである。もし、キリストがその人を愛する自信がないのならば、その人を確実に救い、幸せにする自身がないのならば、この招きはない。「わたしのところに来なさい」。この招きに応え、キリストという人格に、自分の全存在をゆだねることができる人は幸いである。

キリストの招きはすべての人にあるのだが、それをここでは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」と言われている。「疲れた人」は原文では、継続の状態、すなわち慢性的になっている疲れが意識されている。疲れたままになっている。この疲れは、肉体の疲れというよりも精神的な疲れ、たましいの疲れを指す。しかも「疲れた人」は「疲れ果てた人」と訳すこともでき、ほんとうに疲れ切ってしまった人を意味しうる(欄外註)。もう一年ぐらい休みたい、そんな思いになっている人は多いはず。

次の「重荷を負っている人」は、原文においては、過去のある時点において、その人の上に重い荷がどさっと置かれたという文体になっている。それゆえに、その人に疲労感がもたらされ、それが慢性化してしまった。そして極度の疲労感にまで至るようになった。キリストの時代、この疲労をもたらした重荷として取り上げられるのが、当時の聖書学者たち、律法学者、パリサイ人たちが民衆に義務づけた、意味のない規則である(マタイ23:4)。彼らは、私たちが教える規則を守らなければ救いはないぞと、民衆に負いきれない重荷を与えた。こなしきれない宿題、課題の山みたいなものである。けれども、キリストが語る重荷は、こうしたものだけに限定する必要はない。なぜなら、ここでキリストは「すべて…」と招いておられるからである。精神の疲れ、たましいの疲れは様々な重荷から来る。自分の愚かさ、失敗、過失、罪、人間関係、家庭の問題、仕事上の問題、人それぞれが色々なことで重荷を負ってしまう。キリストは内なる疲れを覚えている人たちすべてを、その内容は問わず、招いておられる。

招いておられるキリストの約束は、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」。キリストは自信をもって、こう宣言される。原文では「わたしが」が強調されている。キリストは自信をもってこう約束されている。「休む」というのは、何もしなくていいということを意味することばではなく、労働や長旅で疲れている人が「元気を回復する」という意味のことばである。キリストは私たちに力と活力を与えてくださる方なのである。新しい力を与えてくださるのである。リセットさせてくださる。

29,30節では、キリストはご自身に従うよう、招いておられる。29節は、原文において「わたしのくびきをあなたがたの上に負いなさい」が冒頭に来ている。「くびき」はキリスト時代、耳慣れたもので、ここでは服従のシンボルとして使われている。「くびき」は木で造られていた。くびきは荷車を引いたり、すきを引くのに用いられた。二頭の牛を一つのくびきにつける方法が一般的だった(図を参照)。くびきは旧約聖書では余りいい意味に用いられていない。征服者の奴隷のしるしとして用いられることが多い。隷属屈従という苦難の象徴である(イザヤ9章4節、他)。くびきはありがたくないもの、縛るものというイメージを、聖書の舞台のユダヤ人たちはもっていた。けれどもキリストは「わたしのくびき」という言うことによって、くびきに良いイメージを与えている。

私たちとともにくびきを負ってくださるキリストは、どのようなお方なのだろうか。キリストはパワハラを行使する傲慢で横暴な上司のようなお方だろうか。キリストは「わたしは心優しく、へりくだっているから」と断言されている。「心優しく」ということばは、マタイ5章5節で使用されている。そこで「柔和」と訳されていることばがそうである(新改訳2017「柔和で」)(欄外註:あるいは「へりくだった者」)。「心優しく」も「へりくだっている」も、両方とも、謙遜を意味し、人間の低い状態、奴隷のような状態を表すことばである。実際、キリストは天に住まう神でありながら、神のあり方に固執しようとは思われないで、地上にくだり、人の姿をもって罪人たちに仕えられ、罪人の身代わりとなり、私たちの罪を負って、十字架の死にまでも服された。これは低さのきわみ、へりくだりの極みだった。キリストには私たち罪人と悩みも苦しみもともにする低い姿勢がある。

このお方にあって「安らぎ」が来る。傲慢で気が短くて、イライラしている人のところに行って、安らぎが来るだろうか。けれども、心優しく、へりくだっておられるキリストのもとに行くすべての人に安らぎが来る。キリストは私たちの首にくびきをかける。けれども、これは愛のくびきとなる。それは私たちに安らぎを与える手段となる。そのくびきのおかげで、私たちはいつもキリストのもとにいることができる。キリストの御声を聞くことができる。キリストは私たちにとって、いのちの泉となり、真理となり、平安は尽きることがない。

キリストは私たちがなすべきこととして「わたしから学びなさい」と言われる。つまり、キリストが教師で私たちが生徒という関係である。実は、当時、生徒は教師のくびきのもとにある存在として言われていた。「あなたの首にくびきをつけ、あなたのたましいに教育を受けさせよ」といったことが言われていたらしい。私たちの教師であるキリストは心優しく、へりくだっておられる。忍耐深く、私たちを見捨てない。このお方が人生の導師として私たちを導いてくださる。これ以上の恵みはない。

30節では、心優しく、へりくだっておられる方の最善の配慮を知ることができる。ここで私たちは、キリストとくびきをともにし荷車を引く牛に、自分をたとえてみよう。その上で、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」について考えてみよう。この宣言は、キリストの愛のリーダーシップを思えば、そういうことなのだと納得できるはずである。

「負いやすく」の別訳は「ここちよく」「快い」である(欄外註)。キリストのくびきというものは、取り外したくなるような、悩ましいものではない。それは私たちをキリストのそばに置くものである。誰かを愛しているというとき、愛し合っているとき、愛はくびきをかけがえのないものとし、重荷を軽くしてしまうという神秘も生まれる。

「負いやすく」には「ここちよい」の他に「良い」「有益である」という意味もある。キリストは私たちを愛しておられるゆえに、無益なくびきをかけない。また私たちの限界を知って、耐え切れない重荷を背負わせることもなさらない。だから、キリストを信頼して歩むことができる。そして、それらの重荷はすべて益と変えられる。30節でキリストは、「<わたしの>くびき、<わたしの>荷」と、「わたしの、わたしの」と言っておられる。そのキリストは愛である。

キリストは愛であるゆえに、私たちに重荷を一人で負わせることなく、ともに荷ってくださる方でもある。くびきをともにしてくださるということは、そういうことである。キリストはへりくだって私たちの人生の中に入り、ともに荷を荷おうと言ってくださる方なのである。なんと有り難いことではないだろうか。キリストのこの招きは救いへの招きとして理解されているが、この招きは、すでに信仰を持っておられる方の上にもある。キリスト以外のくびきに首を差し出すようなまねをしたら、余計な苦難を招くだけである。負いきれない重荷を負ってしまうようなことにもなる。中には、自分だけで荷車を引いているような錯覚にとらわれているクリスチャンもいるかもしれないが、そうではない。皆さんの重荷はそれが何であるにしろ、キリストの目から見るならば「わたしの重荷」となるのである。キリストがくびきをともにし、ともに荷ってくださる。だから、それは軽くもなる。何でも「自分で、自分で」という思いから解放されて、「キリストがともに」という信仰に立とう。

今日は有名なキリストの招きのことばを見てきたが、皆さん、先ず、「わたしのもとに来なさい」と言われるキリストの招きに応えていただきたい。このお方の招きを拒む理由はどこにあるだろうか。最高の方が私たちを招いてくださっている。足を踏み出し、キリストの人格のもとに行こう。キリストのふところに自分自身をゆだねよう。そして、キリストとくびきをともにする人生を始めよう。キリストは心優しく、へりくだっており、私たちの罪のために、十字架の上でいのちまでおささげくださったお方である。このお方のもとへ行こう。キリストは私たちと人生をともにされることを願っておられる。

すでにキリストに従う決心をされた方々にもお話するが、私は先に、くびきは服従のシンボルであると説明させていただいた。キリストが右に行こうとしているなら、右に行こう。キリストが左に行こうとしているなら左に行こう。前進しようとしているときは前進し、ストップしようとしているならストップしよう。キリストの愛のリーダーシップに従っていこう。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

皆様の上に、主イエス・キリストの平安がありますように。