今日、ご一緒に開いたイザヤ書は、紀元前700年頃に執筆された書で、旧約聖書の福音書とも呼ばれている。新約聖書にはキリストの生涯を中心に描いた福音書が収められている。福音というのは「良い知らせ」という意味であるが、イザヤ書にはまさしく、良い知らせで満ちている。破れた過去、塗り替えたい過去、そういう過去を抱えている私たちに対して、過去のみならず、過去、現在、未来の救いを約束している。

私たちに救いを与えてくださる存在は神である。聖書は神を天地万物を造った創造主として描き、またそれゆえに、この天地万物を超越した存在として描いている。天地万物を超越し、人間を超越し、他の神々と呼ばれるものを超越した存在が神である。この神は唯一絶対の神である。まことに大いなる方である。

聖書の原語はヘブル語やギリシャ語といった古代語である。この大いなる方を日本語でどう訳したらいいか、様々な論議があった。今日の箇所では10節で「神」(カミ)という訳語が見られるが、この訳語にすんなり決まったわけではない。明治のはじめに、聖書の翻訳に従事した委員の中で、大いなる方を何と訳すかで話がまとまらず、票決をしたところ、「神」が一票多かった、それで神が使われ出したとも言われている。「神」(カミ)は全会一致で決まるような訳語ではなかった。ゆえに、その後も納得しない者が多く、和訳聖書が定着するまで、色んな訳語が使われていた(上帝、天、真神、天翁)。なぜ「神」(カミ)の訳語に納得しなかったのかというのなら、日本のカミの特性にあった。日本のカミは唯一の存在ではなく、多数存在するものであった。「古事記」の中に300以上のカミが登場することからもわかる。

室町時代末期、1549年にキリスト教が伝来したとき、サビエルは「大日」と訳した。彼は大日とは創造主であり、第一原理を意味すると勘違いしていた。あとになって、それはホトケ様のことだと気づいた。ザビエルは日本に創造主にあたる観念はないと知って、「天主」と書いて、自国で使っていた「デウス」という読みをあてた。今、英語圏では「ゴッド」が一般的な呼び名である。

16世紀になると、中国において、聖書を翻訳するにあたり、ゴッドをどのように訳すか論議があった。「神」(シン)と訳すか、「上帝」と訳すか。ヨーロッパの宣教師たちは「上帝」と訳した。上帝には至上の支配者という意味がある。「神」(シン)と訳さなかったのには理由があった。中国ではすぐれた存在を「神」(シン)ということばで表わしたことがない。中国で神は、良いも悪いも区別なく、霊的なもろもろの存在を表すのに使用されている。「漢語の神(シン)とは、祟りをなす悪霊で、信仰対象ではない」。日本でも同じようなところがある(疫病神など)。ところが、ヨーロッパの宣教師たちがゴッドを「上帝」と訳したのに対し、アメリカ系の宣教師たちは「神」(シン)と訳した。「神」(シン)という訳語は難点があるが、「神」(シン)という漢字は礼拝する対象を意味することばであった。「神」の漢字を分解すると、「示」は神に対する献げものを置く台を意味する。「申」は献げものを受ける神を意味する。それで「神」(シン)を選択した。「上帝」を採用しなかったのは、至上の支配者という意味は確かにあるが、中国の皇帝や政治的役職に使用されることばであるからふさわしくないと判断したからである。上帝は、日本で言えば「天皇」にあたる。

こうした議論のさなか、アメリカ人の宣教師ヘボンが来日し、日本語で聖書翻訳に取りかかった。彼はアメリカ人であったため、「神」(シン)を採用した。日本人はそれをカミと呼んだ。そして、この訳が採用され、定着していった。ヘボンがゴッドに神(カミ)の字をあてて聖書を刊行したのは明治5年のことである。ヘボンは日本最初の和英辞典を作ったことでも有名だが、彼はその辞典で、カミを次のように説明している。「神道という宗教の神。ヤオヨロズつまり、八百万、すなわち無数にあると言われる。この語は今やキリスト者によって、デウス・ゴッドに対する唯一の同等・同義の語として使われる」。

この前提を受けて、皆様には、聖書の語る神とは多くの神々の中の一人というのではなく、天地万物を造った創造主であり、全知全能の神であり、すべてを超越した存在であり、唯一無二の絶対者であると理解していただき、これからのお話を進めさせていただく。

3~4節をご覧ください。人間と動物が比較されている。それは人間がすぐれていることを示すためではない。その逆である。「牛」「ろば」は動物の中でも一番鈍感な動物とされている。しかしこうした鈍感な動物でも「飼い主」と「持ち主の飼葉おけ」を知っている。人間は牛やろばよりも鈍感で愚鈍だと言うのである。すなわち、造られた者が造り主である創造主を知らないで生きている。まことの神は人間を造られたお方であり、そして飼い主に相当する存在である。だから、神は「主」とも呼ばれている。神は私たちの主人である。人間はこのお方に逆らい、離れ去り、迷える羊のようになってしまった。

そして神に逆らった罪のために、さばきを招く存在となってしまった。5~6節をご覧ください。「頭」は人間の外部の気高い部分。「心臓」は人間の内部の気高い部分。しかし、それら人間の気高い部分もやられてしまっている。そして全身傷だらけ。頭のてっぺんから足のつま先にいたるまでいかれてしまっている。これは文字通りそうだということではなく、罪のために身から出た錆で、人間性の全体が痛み、腐敗し、死に瀕しているという描写だろう。

イザヤ書は1章から人間の罪が問題にされている。戻って4節を見ると、そこに「罪」と「咎」ということばを見い出す。「罪」<ハーター>の意味は「的をはずす」である。神が的であり、神の定めた基準や戒めが的であろう。けれども的外れになってしまっているということである。いや、的を外していないと言うかもしれないが、その的とは人間が勝手に定めた基準だったり、名声、地位、金、そういったものが的になっているのかもしれない。いずれ、これまでの歴史において、的を勝手に人間が作ってきた。めいめいが自分好き勝手な基準を選択していた。また人間の集合意識というか、全体意識が的を作っていく。つまり、みんなが良いと思うことが正しいのだと。みんなが良ければそれでいいんだと。こうなると価値観は相対化をもたらし、時代によって何が正しいかは変わってくるし、地域によっても変わってくる。けれども、本当の的は神であり、神が定めた基準であり、人が決めることではない。その的は不変的なものである。人に左右されない。

「咎」は日本語で、「欠点、過失」を意味し、罪よりは軽いと説明されるが、軽いということではなくて、単に罪の言い換えにすぎない。原語<アーウォーン>の意味は、「ゆがみ、ひずみ」である。曲がって、ねじれて、ひねくれていることである。規格外の製品や食べ物は欠陥品としてはじかれるが、そういったものと等しい。神の定めた規格から外れることが咎であると言ってよい。

こうした罪咎は自分を痛めることになるのはまちがいない。藪に身をひっかけ、傷だらけになるようなものである。衰弱もまぬがれない。聖書は「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3章20節)と証言している。よって、自分の罪や咎と正直に向き合わなければならない。けれども、そうしなかった人々のことが10~15節に記されている。ここでは様々な宗教儀式が取り上げられているが、神はそれらを喜んでおられない様子である。やり方、手順が間違っているのか。いや、そういうことではない。外面的にはりっぱにやっている。けれども、こうしたことで、自分たちはりっぱにやっていると自己暗示をかけて、自分を慰めているだけである。悪いことばで言うと、自分をごまかしているだけと言おうか。私たちは自分はまともだと自分に言い聞かせたいがために、色々なことをやる。社会的には人助けの仕事を一生懸命やるとか。会社の仕事は忠実にやるとか。まじめに同じ習慣をくり返すとか。新約聖書の福音書には、キリストに「偽善者」呼ばわりされたパリサイ人という人たちが登場する。彼らは外面において自分たちをりっぱに装う人たちだった。たくさんの生活規則を作り、それを守ることに腐心し、儀式も怠りなく守った。けれども、本当の意味で、正義も愛もあわれみもなおざりにする人々だった。彼らはキリストによって痛烈に批判された。心の中が邪念の吹き溜まりになっていることを見透かされていた。キリストは彼らの高慢さ、貪欲さ、冷たさ、卑劣さを暴露していく。パリサイ人たちは口に神さまを持っていたが、心は遠く神から離れていた。

10~15節は祭りの描写も目にするわけだが、日本人も祭り好きである。しかし多くの日本人は、祭りはしても、御神体は誰であるのかもわからない。自分の宗派は言えても、御本尊は誰であるのかもわからない。そうした現状の中で祭りと儀式をしている。しかもご利益を受けることが関心の中心である。対象が誰でどういう方であるのかは重視しない。対象は何でもよく、自分のしあわせのために仕えてくれればいい。自分が的になって、神々よ、的をはずすなよと言わんばかりに。

さて、罪とは、まことの神に対するものであることを知ろう。日本人はまじめで、古代から罪の概念があったのではないかと言われるかもしれないが、あるにはあった。日本古来の神道では、罪を「天つ罪」と「国つ罪」とに区分した。「天つ罪」とは、農業生産を邪魔する行為のこと。「国つ罪」とは、人間や動物に害を与える行為を言う。落雷や火事といった災難、病気も入る。これらに絶対神に対する罪という概念はなく、だから、神道側では裁かれなければならない罪はない、と主張している。けれども、私たちはまことの神と断罪を意識しなければならない。

16~17節をご覧ください。「洗え。身をきよめよ」。これは「悔い改めなさい」ということの言い換えである。その後に「わたしの前で」とあるように、神の前で悔い改めるということである。17節にあるように、神は正しい手のわざを期待しているが、その前に、神がまず人間に願っておられることは、罪からの悔い改めである。次にすべきことは、罪の赦しを求めて神のもとへ行くということである。

今日の中心聖句18節をご覧ください。「『さあ、来たれ。論じあおう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」。「さあ、来たれ」と神は私たちを招いておられるが、それは罪の赦しという恵みを与えるためである。この節では罪が二つのものにたとえられている。一つは「緋」である。「緋」は赤い染料である。広辞苑の説明では「濃くあかるい朱色。深紅色」とあった。この赤い染料は繊維に深くしみこんで中々とれない。もう一つは「紅」(くれない)である。「紅」と訳されていることばは、昆虫の一種で、日本では「コチニール」として知られている。えんじ虫、カイガラ虫とも呼ばれている。コチニールは日本画の絵の具、友禅染の染料などに用いられている。友禅染の赤色を見たら、今日のみことばを思い出していただきたい。また、実を言うと、コチニールは現代において、ハム、魚肉ソーセージ、かまぼこ、お菓子などの赤色、また口紅やアイシャドーにも使われている。コチニールの雌は赤い物質を含んだ卵を産む。それを染料として用いるとき、「緋」と呼んだらしい。この染料は繊維に染みこんだら中々とれないわけだが、これは罪が人間の心に深く染みこんでいる様を思い浮かばせる。もうそれは、クリーニング店にもっていってもとれない染みのようなもの。

このところで、罪が染料のようにして私たちの心に染みこんでいるのはナルホドと思わされたが、私は単純に一つの疑問をもった。それは、なぜ罪が赤色で表わされているのかということである。罪なのだから、黒色にたとえられてもいいのではないかと思った。皆さんも、そう思わないだろうか。以外にも、聖書の舞台である古代近東では、罪は赤色にたとえられていたそうである。でも、なぜ赤色なのだろうか。調べてわかったことは、赤とは殺人の色、血の色であるということである。殺人は罪の中で重い部類に入る。私たちは殺人罪を犯していないから、自分の罪の色は赤色にならないと思いたい。けれども、残念ながら、私は聖書を読んで、自分の罪の色は赤色であると認めざるをえなかった。

新約聖書マタイ5章21節をご覧ください。これはキリストのことばであるが、キリストは、人への憎悪、怒り、軽蔑のたぐいも殺人罪であり、重い裁きがくだると言っている。私たちはこの基準を受け入れるとき、自分の罪は緋のように赤く、紅のように赤いと認めざるをえない。血を流すのと等しい罪を犯したということである。この罪は赦されるのだろうか。というのも、聖書の教えは、血を流した者には、その代償として血が求められることを教えているからである。いのちにはいのち、すなわち、死の裁きである。

この死の裁きを身代わりに受けてくださったお方がイエス・キリストである。これを知るために、参考として新約聖書ローマ3章23~26節を開こう。キリストは十字架につき、私たちの罪の身代わりに血を流して、裁かれてくださった(25節)。キリストはまことの神にしてまことの人、神と人との仲介者である。キリストは私たちの血の罪を全身全霊で受け止め、血を流して死んでくださった。このキリストを信じる者は、罪の裁きが終わった者とみなされ、罪赦される。「義と認められる」という表現があるが、言い換えると、罪赦されるということであり、罪に定められることがない、ということである。もっと積極的表現をとると、一度も罪を犯したことのない者としてみなされるということである。視覚的に表現すると、「雪のように白くなる」「羊の毛のようになる」ということである。罪の染みは消され、拭い取られる。これは全き赦し、完全な赦しの描写である。このために、キリストは罪からの救い主となられ、十字架についてくださった。

今日はイザヤ書1章を中心に見てきたわけだが、イザヤ書を執筆したイザヤという人物の名前の意味は「主は救い」である。それはイザヤ書のテーマそのもの、また聖書のテーマそのものである。主である神は、キリストにあって私たちの過去の罪、現在の罪を赦し、永遠の救いを与えてくださる。天の御国に救い入れてくださる。

私は初めのほうで、福音とは「良い知らせ」を意味するとお話したが、自分の罪を自覚する者にとって、罪の赦し、永遠の救いほど良い知らせはないはず。明日は晴れ、お給料アップ、手術成功、孫の入学、そうしたことも良い知らせであろう。生活の中ではこうした小さなしあわせで満足しつつ、私たちは、神が知らせる「良い知らせ」を最も尊びたい。悔い改めてキリストを信じるならば、すべての罪の赦し、永遠の救いがある。これ以上のしあわせはないはずである。