エペソ人への手紙は、祈りについても教えられる書である。1章では15節以降、神を知るための祈り、神が与えてくださる希望を知るための祈り、神の御力を知るための祈りがささげられていた。今日の箇所からも祈りについて教えられる。

今日の箇所は3章1節からの続きである。14節に「こういうわけで」とあるが、文脈としては3章1節からの続きとなる。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います」と、彼が言おうとしていことは、今日の箇所に記されている祈りのことばなのである。けれども彼は、一気に祈りのことばを言わないで、キリストにある務めを2~13節で語ったわけである。そして、14節で話の本筋に戻ったという流れである。

パウロの祈りは、「ひざをかがめて」の祈りであった(14節)。当時のユダヤ人の祈りの姿勢として、立って祈るのが普通だった。もちろん、ひれ伏しての祈りやひざをかがめての祈りもある。しかしそれらは例外で、ユダヤ人はみな祈る時、普通、立って祈った。ひざをかがめて祈るという場合、それは深い感情や熱烈な願望を表わす場合の姿勢だった。イエスさまはゲッセマネの園でひざまずいて祈る姿勢も取った。パウロは牢獄の中で、熱心なとりなしの祈りをささげていたわけだが、それが「ひざをかがめて」という姿勢から伝わってくる。

パウロは祈りの対象である神を、「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父」と表現している(15節)。パウロは、神は信仰の家族の父であると強く認識している。「家族」という言葉自体は、すでに2章19節に登場している。2章19節で「家族」と訳されている原語は<オイケイオイ>で、それは「家」を意味する<オイコス>に由来している。けれども3章15節の「家族」は別の原語が使われており<パトリア>である。このことばは、「父」を意味する<パテラ>に由来している。父を中心に一つにまとまっているのが家族である。パウロはそのことを伝えたくて、ここでは<パトリア>を選択している。パウロがエペソ教会の兄弟姉妹に願っていたのは、人種や階級が違っていても、父なる神を中心として家族愛に生きることだった。それを踏まえて、次に16~19節の祈りを見ていこう。

パウロの祈りを三つに分けて見ることができるだろう。第一に、内なる人が強められるための祈りである。そのために聖霊の力を求めている(16節)。「内なる人」とは、17節の「心」の言い換えである。私たちは内なる人が強められるためと聞くと、憂鬱な気分が解消するとか、元気になることをイメージするかもしれないが、そういうことではない。そうしたことだったら、日光に当たるとか、睡眠を充分に取るとか、栄養補給をするとか、自分を信じて気持ちを強く持つとか、この世の人たちもしていることである。パウロが願っていることはそうした次元のことではない。もっと奥深い霊的次元に関することである。私たちは罪を犯すと、内なる人は弱る。だから一見元気で前向きな人でも、内なる人はボロボロということが普通にある。人をすぐねたんだり赦せなかったりというのも内なる人が弱いしるしの一つである。欲望に負けてしまうということもそうである。内なる人が強い最高のモデルは誰かと言うならキリストである。

内なる人が強められることに関しての参考箇所を二箇所開こう。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(第二コリント4章16節)。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これは、まさに、御霊なる主の働きによるのです(第二コリント3章18節)。「主と同じかたちに姿を変えられて行きます」、これが内なる人が強められるということなのである。そのために聖霊の力を求めるということである。

エペソ人への手紙3章に戻る。17節前半では内なる人が強められることを、キリストの内住として言い表されている。「こうして、キリストがあなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」(17節前半)。キリストを信じ受け入れた時点で、聖霊によってキリストは皆さんの心に内住した。信仰者の皆さんのうちに、キリストはすでに内住している。私たちは自分の心の中に、ある人の記憶の断片が百分の一秒でも宿ることがある。ある人の顔が心に思い浮かぶことがある。場合によってはペットの顔が。けれども、それは記憶であって実体ではない。しかし、キリストの場合、私たちが思い浮かべようが思い浮かべまいが、実体として、私たちの心のうちに住んでおられる。すでに内住しておられる。ではなぜここで、パウロはキリストの内住を祈っているのだろうか。ある人は、パウロはここで、キリストが継続して内住していてくださるように祈っているのだと言う。それは間違いではない。間違いではないが、それ以上のことが言われているだろう。このことを原語の意味から、例話を交えて説明していこう。

「住む」と訳されることばには二種類ある。ここでの原語は<カトイケオー>。それは一時的な滞在を意味することばではなくて、「家に住み込むこと、定住すること」を意味することばである。この文脈においては、私たちの心という家に、ちょっとおじゃまするというのではなくて、家族の一員として、そこを自分の住居として、身を落ち着かせるという意味である。ちょっと一時間ばかりおじゃましますと言うのなら、汚い家でもがまんできる。だがキリストは、しばらくがまんしていようということで、私たちの心に入ったのではない。定住するために入られた。もっと別の言い方をすると「永住するために」入られた。だから、私たちの心がキリストにとって居心地が良い家かどうかが肝心。結局、私たちの内なる人の「質」が問われてくる。自分の心が居心地の良い住まいとなるべく歓迎する姿勢があるのかということ。だから、受け入れる側の私たちの信仰姿勢が問われてくる。

ある人は二種類のもてなされ方をしたことについて記述している。一つは貧しい家に宿泊した時のことだった。家の人には、自分の家と思って、どの部屋でも自由にお使いくださいと言われて、過ごしやすかったと言う。もう一つは、特定の部屋だけをあてがわれて、用事があっても住人の居住スペースには鍵がかかっていて入れず、疎外感を味わったというケース。その人は、疎外感を味わった時に、「多くのキリスト者がこれと同じようなことをわたしにしている」というキリストの語りかけを受けたと言う。キリストに疎外感を味わわせてしまっている。自分の居住スペースには鍵をかけ、こちらの部屋には来ないでくださいと言わんばかりに、狭いスペースしか与えていない。考えてみると、私たちの心という家の主人はキリストのはずである。だから、すべての心の部屋をキリストに明け渡さなければならないわけである。入れたくない部屋とか、鍵を渡したくない部屋とか、見せたくない押入れとか、絶対足を踏み入れてほしくない地下室とか、色々あるだろうけれども、キリストを客間の狭い一室に閉じ込めておくような態度はいただけない。あるいは、家に入れたとしても内玄関止まりで、それ以上は中にはいれないような態度はまずい。キリストは私たちの心の家の主人となるために、そこに定住するために、入られた。心のダイニングルームでもリビングルームでも、どこでも主を歓迎し、汚い押入れも恥を忍んでお見せして、主と一緒にお掃除する。主には何も隠さないで、お掃除を手伝ってもらおう。「主よ。この罪を赦しきよめて下さい。主よ。罪の原因を作る、私のこの傷にふれて、いやしてください。主よ。カビ臭い、この湿った暗い部屋にあなたの光を届けてください」。キリストは私たちのこんな態度をお望みだろう。よそよそしいのは良くない。こうして、私たちはキリストの支配を喜び、キリストとともなる生活を喜ぶ者となるのである。

新改訳2017は、17節前半を「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」と訳している。まるで、これまで一度もキリストを心に受け入れたことのない人に対するような命令にも思えてしまう。これはどういうことなのか。これは先ほどの、住人の居住スペースには鍵がかかっていて入れず、特定の部屋だけあてがわれて疎外感を味わったケースを思い起こしていただければいい。キリストにそうさせないようにという命令である。ヨハネの黙示録3章を見ると、キリストを疎外しているラオデキヤ教会のクリスチャンに対するキリストご自身のことばがある。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(3章20節)。食事は親しい交わりを意味するわけだが、そうした関係を持つことをはばんでいた。私たちは、キリストを慕い、キリストが私たちの心に豊かに住んでくださることを願い、それを祈ろう。

第二は、キリストの愛を知るための祈りである(17節後半~19節前半)。神の愛は歴史の中で、キリストの十字架によって啓示された。それまで十字架は死と呪いのシンボルでしかなかったが、いのちと愛のシンボルに代えられた。キリストは十字架の上で、ご自分をなだめの供え物とし、私たちの罪を償ってくださった(第一ヨハネ4章7~16節参照)。私たちはキリストの十字架を通して愛を知ったと言っても、まだ十分ではない。親の愛を知るのに時間がかかるように、神の愛、キリストの愛を知るのも一朝一夕のことではない。パウロは18節において、「その広さ、長さ、高さ、深さ」と表現することにより、キリストのうちに見られる神の愛の大きさを表現しようとしている。「愛の広さ」~キリストの愛は狭くはない。キリストはどんな罪人でも受け入れる備えがある。また人種主義、排外主義を採る人たちがいるが、キリストはユダヤ人、異邦人、人種関係なく、すべての人を心の港に停泊させる余裕がある。キリストは広い港のような心をもつ。「愛の長さ」~キリストの愛は簡単に切れない。ずっと続く。それは永遠の愛である。どこまでも続く。「愛の高さ」~詩編には神の恵みは天にまで及ぶことが描写されているが、キリストの愛は天的で高い。「愛の深さ」~私たち罪人のたましいは黒い霊気を放ち、悪臭を放ち、滅びに向かって歩んでいたが、キリストは肥溜めの中に下るようにして天上から下り、罪人の友として歩み、そして時至り、罪人の罪を負い、十字架刑に処せられ、暗闇と恐怖と痛みを経験され、よみにまで下ってくださった。それもこれも私たちに対する愛からである。この愛は人知を越えた深さがある。

パウロは「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈る(19節前半)。この愛も聖霊によって知ることができるのであろう。ローマ5章5節には「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです」とある。

さて、私たちがキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知っていったらどうなるだろうか。ますますキリストを恋い慕い、愛するようになるだろう。すなわち、キリストを自分の心の住人として、ますます歓迎するようになるだろう。キリストを同居人として、キリストとともなる生活を喜ぶようになるだろう。「やれやれ、毎日が大変だ。家に入れるんじゃなかった。給仕に、部屋の掃除に、とめんどうだ。面と向かって話しするのも早く切り上げたい。すべてが義務にしか感じられない。いつまでいるんだろう、このイエスという人は」といったこととは無縁となる。キリストは我が喜び、我がいのち、最高の主人、最高の友、最高の花婿となり、ともに過ごし生きることが無類の喜びとなる。心の家からキリストが望まないものは捨て去ることを望み、どの心の部屋にもキリストの臨在があり、キリストの平和が宿り、それはいつまでも続くだろう。また、このキリストへの愛は、隣人への愛、互いへの愛となって表わされるだろう。

第三は、成熟を求める祈りである(19節後半)。「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」というのは、成熟を願う祈りである。パウロのこのことばから、山上の説教の主イエスの命令、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5章48節)を思い起こす。あの箇所も愛の教えの文脈で語られている。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬を向けなさい」「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」、そうしたみことばに続いて、天の父のような完全が言われている。「完全」<テレイオス>は「成熟」とも訳せることばで、天の父のような愛の成熟を願っていることがわかる。

かつての浮浪者の話である。その人が路上で物乞いをしていた時のこと。一人の男性が通りかかった。そこで、その物乞いはその男性の肩に手をかけて、「10セント恵んでくださいませんか」と話しかけた。ふと、その男性の顔を見ると、何とその男性は自分の父親だった。「おやじ、俺だよ、わかるか」。その男性は彼に手を回して、涙しながら言った。「息子よ。とうとうお前を見つけた。見つけたよ!お前は10ドル欲しいというのか。わたしのすべてのものはお前のものだよ」。これは、放蕩息子の父親の現代版であるが、私たちは、神の愛に感動するだけでなく、この神の愛にならうように召されている。感動するのは簡単だが、ならうことがなければ意味をなさない。私たちは愛において成長し、成熟するように召されている。

今、内なる人が強められるための祈り、キリストの愛を知る祈り、成熟を求める祈りについて見てきた。私たちの普段の祈りがパウロの祈りに近いものであったら幸いである。

パウロの祈りは、ある意味、ここで終わってはいない。パウロは3章を頌栄をもって締めくくる(20~21節)。パウロは神をほめたたえ、神に栄光を帰して終わる。パウロに神をほめたたえさせたのは、キリストにおいてなされた神の驚くべき愛のみわざである。そして、これは、そのものが礼拝のことばである。パウロは牢獄の中にあっても、神の驚くべき愛のみわざを覚えて、賛美し、礼拝をささげていた。パウロの祈りの中心は賛美の祈り、礼拝の祈りであった。

私たちは今日学んだパウロの祈りに近づこう。自分のしあわせ、安全、健康、商売繁盛、危険からの守り、そういった祈りだけなら、異教徒と何ら変わりがない。私たちはパウロの祈りに倣おう。聖霊の力を求め、信仰者としての成長に、キリストに、神の栄光に焦点を当てた祈りをささげよう。この祈りをささげていてくときに、自分の中で変革がもたらされるのを経験していくことになる。自己変革を望んでいるならば、今日の祈りを模範とすることである。また今日のパウロの祈りはとりなしの祈りであることも覚えよう。私たちも自分のことだけではなく、他のクリスチャンたちがキリストにあって成長し、祝福されるように、とりなしの祈りをささげよう。