本日、聖霊降臨日を意味する記念日「ペンテコステ」に、聖霊をテーマにご一緒に学びたいと思っている。聖霊は日本語で「御霊」とも呼ばれている。主キリストは十字架にかかられる前、聖霊の教えを説かれた。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです」(ヨハネ14章15節)。聖霊が「もうひとりの助け主」と呼ばれている。「もうひとりの」を意味する原語には二つある。「全く同じもう一つのもの」を意味する<アーロス>と、「全然違うもう一つのもの」を意味する<ヘテロス>。聖霊には「全く同じもう一つのもの」を意味する<アーロス>と「全然違うもう一つのもの」を意味する<ヘテロス>のどちらが使用されているだろうか。「全く同じもう一つのもの」を意味する<アーロス>が使用されている。聖霊は誰と全く同じなのだろうか?それは明白である。キリストと全く同じであるということ。聖霊はキリストと全く同じ人格、全く同じ愛、全く同じ力、能力をもっておられる。聖霊とキリストは同質で、一つの存在である。

「もうひとりの助け主」の聖霊は、本日の9節では「キリストの御霊」と言われている。キリストは御霊を通して、私たちに働きかけ、教え導かれる。キリストが天に挙げられる前は、キリストは肉体をもっていたがゆえに一箇所でしか働くことができなかった。しかし、使徒の働き2章に見るペンテコステの日以来、キリストは御霊を通して全世界で働いておられる。私たちもそれぞれがキリストの御霊の働きを受けている。

現在、当教会の礼拝では、エペソ人への手紙を主に学んでいるが、エペソ人への手紙では、信仰者は「キリストの中にいる」ということが繰り返し語られていた。本日の9節では「御霊の中にいる」と語られている。「~の中に」と訳されていることばは、場所、領域を表わす<エン>(英語のinに相当)。「キリストの中にいる」ということは「御霊の中にいる」ということ。御霊はキリストの霊であり、キリストと同質の存在である。私たちはキリストの御霊の中にいる。また、10節を見ていただくと、キリストは私たちのうちに住んでおられること、内住しておられることを告げている。「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら」。キリストは信じた者のうちに住んでいる。そして9節では、「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる」と言われている。キリストが私たちのうちに住んでおられるということは、御霊が私たちのうちに住んでおられるということでもある。御霊は、キリストと全く同じもうひとりの助け主。同質の存在である。キリストと一つの存在、キリストの御霊である。

御霊の性質について確認していただいた上で、「肉」について見ていこう。ローマ人への手紙8章において、御霊と対立する存在として「肉」が繰り返し言及されている。「肉」<サルクス>とは何だろうか。先ず初めに、肉それ自体は悪いものではないことをお伝えしておきたい。エレミヤ書32章27節では、「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、主である」とある。人間が「肉なる者」と呼ばれている。肉は生物学的に定義すると、「からだをもつ人間存在」とか「からだの主要構成要素」と言えるだろう。「肉」ということばが最初に登場するのは、創世記2章である。アダムからエバが造られた時、アダムはこう言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」。(2章22節)。人間は肉体を持つものとなった。この肉体は悪いものなのだろうか。神は人間を含めてすべてをお造りになった時について、こう言われている。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1章31節)。肉体もその中に含まれる。このように書いてあるにもかかわらず、肉体を悪いものとみなす人々がいた。物質は悪、霊は善という二元論に立って、救いとはこの悪の肉体から霊魂が解放されることだと主張する人々がいた。この立場に立つ人の中には、キリストが肉体を持たれたはずはない、肉体を持っているように見えただけだと主張する人々がいた。しかし、事実は違うのである。ヨハネ1章14節を開いていただきたい。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。「人」の直訳は、欄外註にあるように「肉」<サルクス>である。「キリストは肉となった」。キリストは肉を持っているように見えたとか、肉をまとったとも言われていない。「キリストは肉となった」のである。では、キリストは罪の肉となったのだろうか。そうではない。キリストは生涯の間、罪を一つも犯さなかったきよいお方であると聖書は証言している。肉は罪ではない。良いものである。が、しかし、それは不完全で有限的存在である。罪ではないけれども、不完全で有限的存在であるがゆえに弱い。キリストは肉となったがゆえに不自由、不便を覚えられただろう。肉の弱さは私たちも体験済みである。飢え渇きが来るし、傷つくし、疲れるし、眠らないとだめであるし、色んな欲望にかられる。罪に陥りやすい。実際、アダムとエバは誘惑に会って罪に堕ちた。禁断の実に手を伸ばして食べてしまった。キリストも誘惑に会った。「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた」(マルコ1章13節)。この石をパンに変え、食べてしまえ等。罪に誘う誘惑である。もしキリストが誘惑を感じなかったのなら、「誘惑」ということばは、ことば遊びとなってしまう。キリストは肉の弱さがあったがゆえに、誘惑を誘惑として感じられた。キリストも、お腹が空く、疲れる、しんぼうするのが大変に感じるというからだを持っておられた。しかし、アダムのように罪を犯さなかった。

肉は不完全で弱さを持つが、それ自体、悪の存在ではない。けれども、今日の箇所を読めば、肉は悪者扱いされている。どうしてだろうか。問題はここにある。私の肉の説明は、まだ半分しか終わっていない。ローマ8章を初めとして、新約聖書を読むと、肉は罪深いものとして描かれている(6,7,8節)。ガラテヤ5章では17節で「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうのです」と言われ、ガラテヤ5章19節以降では、「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、酩酊、遊興、そういった類のものです。私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」と言われている。肉は御霊に敵対する存在とされている。こうなってしまったのは、アダムの罪以来、肉が罪の支配下に入ってしまったからである。罪の支配下に堕ちた肉は、原罪を宿し、神に逆らう欲望を抱くようになってしまった。神との関係性において、肉は、アダムの罪以来、「神に逆らう欲望を抱く存在」と定義できる。ダビデは悔い改めの詩篇と呼ばれる詩編51篇5節で、「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」と言っている。意味深な告白である。ここは、アダムから引き継いでいる原罪の教義を語る上で必ず取り上げられる箇所である。ダビデは誰かに教えられたというよりも、自分の体験として、また内観により、自分は生まれた時から良くない性質を宿していると悟った節がある。わたしは自己中心になる…。神に逆らう欲望を抱く…。この良くない性質を持つ存在を、パウロは肉として論じている。彼は生物学的以上の意味で「肉」ということばをここで用いていることはまちがいない。神との関係性においては、神を離れ、いのちを失い、原罪を宿し、堕ちた人間存在が肉である。キリストは、この肉の性質に打ち勝つために肉となり、人類を敗北に至らしめていた肉に勝利してくださった(3節)。私たちの肉は神の戒めを守ることができない無力さにある。反対に悪い欲望を抱く。このような私たちを救うために、キリストは肉となられた。といっても、キリストの場合、原罪の汚れからは守られた肉として、肉となられた。ここが私たちと違うところ。キリストは原罪を宿してはいない。しかし、先に述べたように、肉の弱さは持っておられた。キリストは私たちと同じ肉の姿で誘惑に打ち勝たれ、父なる神に従い通し、何一つ傷や汚れのない全焼のいけにえ、罪のためのいけにえとなり、十字架の上で私たちの身代わりとなり、3節にある「肉において罪を処罰された」というみわざが行われた。

肉の理解は一様ではないが、アダム以来の肉を引き継ぐ罪人の肉は、はちみつにたとえることができるかもしれない。生はちみつは、一歳未満の赤ちゃんに食べさせるなと言われている。栄養があると思ってうっかり食べさせたがために、赤ちゃんが死ぬケースが報告されている。どうして死んでしまったのか。ボツリヌス菌に感染してしまったからである。昨年、東京都の生後6か月の赤ちゃんが離乳食代わりにはちみつを口にし、ボツリヌス症になって死んでしまった。免疫力のない乳児にはちみつを食べさせることを厚生労働省で禁じている。はちみつには有毒なボツリヌス菌の「芽胞」(耐久性の高いカビの胞子のようなもの)が含まれている。芽胞は100度の熱でも死なない。芽胞のままで発芽しなければ悪さしないのだが、発芽したら命の保証はなくなる。大人の場合、腸内最近が豊富で免疫力があるので問題を起こさない。免疫力のない乳児の場合、芽胞が腸内で発芽し、増殖する。そして死に至らせる。はちみつはそれ自体では毒ではないが、問題を起こす芽胞を含んでいる。同じように、肉はそれ自体罪ではないが、アダム以来、原罪という芽胞を含んでいる。それは発芽し、増殖し、死に至らせる力、致死力を持つ。乳児がはちみつのもつ毒性に抵抗できないように、私たちも肉のもつ毒性に抵抗できない。

神は、原罪を宿して、それに汚染されてしまった肉をもつ私たちを救おうとして、肉を改善、改良しようとはされない。肉はどんなにいじっても肉にすぎないから。そうではなく、私たちをキリストにある新しい人とし、御霊の中に生きることができるようにしてくださった。肉にはできないこと、神の私たちへの要求を行うことができるようにしてくださった。神の子どもとしての歩みができるようにしてくださった(14,15節)。この世の心理学、哲学、宗教は、ただ肉をいじったり、手を加えたりするだけで、一時しのぎで希望はない。肉はどんなにがんばっても罪との関係を断ち切れない。肉は罪の支配下にとどまったままである。肉にふさわしい場所は十字架でしかない。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ5章24節)。肉の場所は十字架である。私たちは肉の性質に望みを置くのは止めて、それは十字架につけ、御霊の中に、御霊の支配下に生きる道を選び取っていくということである。方法としては、「アバ、父よ」と祈り、御霊の助け、御霊の導きをいただくことである。御霊は勝利の御霊であり、いのちの御霊である。

御霊は最終的には、私たちのからだも刷新してくださる(11節)。「ことばは肉となった」と言われていたイエスさまのからだがよみがえらされ、栄光のからだに変えられたように、私たちのからだも変えられる。それは病のないからだ、死なないからだ、朽ちないからだ、疲れを知らないからだ、強いからだ、罪を犯す可能性のないからだ、栄光のからだである。

最後に、御霊について三つのことを整理させていただきたい。

第一に、私たちは御霊を、私たちの心の中に住まわれる方として持たなければならない。キリストを私の罪からの救い主として心にお迎えしたならば、その人の心にはすでに御霊が宿っている。キリストが心に住んでいるということは御霊が心に住んでいるということでもある。こうした自覚をしっかりと持とう。

第二に、私たちは御霊を、私たちの心の中にお迎えするとともに、私たちのからだに宿られる方としても迎えなければならない。第一コリント6章19節には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり」とあるが、本日の11節でも、そのことが暗示されている。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が住んでおられるなら」の「住んでおられる」<オイケオー>はきわめて強いことばである。そして二回目の「あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって」の「うちに住んでおられる」<エノイケオー>はいっそう強い表現で、住みついて離れないことを意味することばである。根を下ろすように住み込んでしまうイメージである。「内住しておられる」「宿っておられる」「住みついておられる」と別訳できる。私たちの方では、御霊を大事な主人として迎え入れる姿勢が必要である。大切な賓客のようにして迎え入れる思いを持たなければならない。

第三に、御霊の導きに従わなければならない。肉ではなく、御霊にである。肉に従うことに慣れすぎてしまっている私たち。あたかも肉が自分の神であるかのように従ってきた。しかし、今や、私たちの神は肉ではなく御霊である。9節で「神の御霊」と言われているとおりである。14節でも「神の御霊」と呼ばれている。私たちは、みことばと祈りの習慣と、臨在信仰をもって、神の御霊の導きに従うのである。御霊の助けを願うのである。信仰のアンテナを御霊に向けるのである。御霊のリーダーシップに期待するのである。そうして実生活で肉に勝利していくことを学習していこう。