今日のテーマはズバリ「恵み」である。日本では「恵みの雨」という表現が良くされるが、恵みということばを一番良く使うのは教会ではないかと思う。教会では頻繁に恵みということばが使われ、クリスチャンたちも恵みを良く口にする。恵みということばが好まれている。けれども、本当に恵みを恵みとしているのかというなら、それは別の話になってくる。J.I.パッカーは多くのクリスチャンについて次のように語る。「彼らは恵みという思想に口先では賛成しますが、そこで止まってしまいます。彼らは恵みがまったく存在しないと考えるほど、その思想が低下してしまってはいません。しかし、彼らは恵みについて考えるだけで、それが彼らにとっては何の意味も持っていません。」そして次のような疑問を投げかけている。「恵みを信じると告白している非常に多くの人々を、真に信じることがないように妨げているものは、何なのでしょうか。恵みについて非常に多くのことを語りながら、恵みがその人にとってあまりにもわずかな意味しか持っていないのは、なぜなのでしょうか。この問題の根本は、人間と神との間の基本的関係に対する誤った考えにあるようです」。

恵みということばを新訳聖書で多用しているのはパウロである。彼は恵みというものは何であるのか、完全に理解していた人物の一人である。彼は「神の恵みによって、私は今の私になりました」(第一コリント15章10節)と告白し、また「私は神の恵みを無にしません」(ガラテヤ2章21節)と告白し、その通りの生き方をしている。

「恵み」と訳されているギリシャ語<カリス>は美しいことばで、「親切、好意、愛顧」といったことを意味する。ヘブル語で恵みに相当することばは<ヘセド>で「いつくしみ」を意味する。大切なポイントは、この「恵み」ということばが、聖書においてどのような使われ方をしているのかということである。そこから、どのように定義できるのかということである。

次のように定義できることはまちがいない。「恵みは、厳しさのみがふさわしく、厳しさ以外の何ものも受けるべき理由がない人々に対して、神がいつくしみを示されることです」(J.I.パッカー)。パウロは私たちのことを3節で「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」と言っている。私たちは自らの罪深さのゆえに神の御怒りを受けるにしか値しない。もし、この評価に立てず、自分を高く評価するなら、神の恵みはわからなくなってくる。自分のしてきたことを過大評価して、自分はもっと報いを受けて当然な身なのにと思い上がるなら、恵みというものはわからなくなる。口をついで出るのは自分を誇ることであったり、神への不平、つぶやきとなる。高ぶってしまうと、地獄にしか値しない罪人なのに、もったいない恵みという感覚は持てない。神は罪を罰せられる方、さばかれる方である。この神の前に義人として立てる者など誰もいない。私たちは永遠の刑罰がふさわしい身であった。しかし、キリストが私たちの代わりに、神の御怒りを受け、罪のさばきを受けてくださった。結果として私たちに与えられたものは何だろうか。罪の赦しであり、義であり、永遠のいのちであり、神の子どもとして栄光の相続財産を受ける権利等である。これらすべてが一方的に与えられた。無代価で与えられた。ただで与えられた。それは豊かな神の恵みにほかならない。けれども、まだまだ感動が薄い私たちである。これだけの恵みを受けているのに、まだ足りないといわんばかりに、神さまに不平とつぶやきをもらす。神の恵みをほんとうの意味で恵みとできる罪人になりたいと思う。

次に、すべては神の恵みであることを覚えよう。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(8節)。ここで言われていることは、私たちの救いは恵み100パーセントによる救いであるということである。パウロの言っていることを受け取り違いすると、救いとは恵みプラス私たちの信仰となってしまう。神の恵み50、人間の何か50で救われるのだとなってしまう。合せて100パーセント。そうではない。ここで伝えていることは信仰さえもが神の恵みなのである。パウロは8節後半で、「それは、自分から出たことではなく、神からの賜物です」と、神の恵み100パーセントによる救いを誤解する者がいないよう、ダメ押ししている。すべては神の恵みなのである。神の恵み100パーセントによる救いなのである。神の恵みなしには、私たちは信仰など持てなかった。洪水で木にしがみつき救助を求めている人がいるとしよう。ヘリコプターから縄梯子がぶら下がり、救助隊の人が下りてきて、梯子に乗り移るのを手助けしたとしよう。救助隊員はその人を抱き寄せて、安全に梯子に乗り移させる。救助された人は、私が救われてやった、救助隊員の指示に従ってやった、と自慢するだろうか。救助隊員の腕に自分の身をまかせてやった、私のお蔭だ、と言うだろうか。こんなばかなことを言う人はいない。けれども信仰者の中には、自分の信仰を自慢する者がいるので、困ってしまう。

また、神の恵みによって救われたと言いながら、その後の信仰生活を自慢する者たちが出て来る。私たちは、神の恵みなしには指一本動かすことすらできない。私たちは知らず知らずのうち、自分の力や功績を誇るようになる。そして神の恵みを浸蝕(むしばんで)してしまう。しばし、恵みで信仰生活が始まったはずなのに、自分の力が恵みを押しのけることになる。申命記8章17,18節の警告を心に留めよう。「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけない。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである」。ここでは力も神が与える恵みであることが教えられている。神の恵みを恵みとするとき、感謝が生まれるだろう。しかし、そうでないとき、自分を誇るのである。

9節でも、神の恵み100パーセントによる救いを教えようとしている。人間の行いによるのではない。自分の行いを誇ることは、神の恵みに対する侮辱である。私たちが誇るべきは、ただ主の十字架である。この十字架が用意されなかったなら、私たちに救いはなかったのである。

続いて、すでに触れた事柄と重複する内容もあるが、神の恵みを恵みとして実感するために、神の恵みについて二つのことを見よう。第一に、罪の赦しの恵みということである。1章7節を復習しよう。「この方(キリスト)にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」。この恵みを忘れないでいたい。すべては神の恵みなのだが、神の恵みを良くわからせてくれるのが、やはり罪の赦しである。「赦し」ということばは原語において、「罪の告発の取り消し」、「執行されるはずだった罪の評決の免除」を表わす。無罪放免である。罪の借金返済も、刑罰も何もない。キリストが血の代価を払って、これを成し遂げてくださった。神がキリストを通して与えてくださった恵みは罪の赦しで終わらないことは先に触れたが、神の恵みが良くわかるために、罪の赦しの恵みということを押さえておきたい。

第二に、神の選びの恵みということである。私たちが救われたのは、私たちが良い人間だったからではない。それは一方的な神の恵みの選びに基づいている。「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」(1章4節)。イスラエルの民の選びについても同じことが言える。「・・・あなたは心の中で、『私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ』と言ってはならない。・・・知りなさい。あなたの神、主はあなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。」(申命記9章4~6節)(申命記7章7,8節参照)。神さまの救いの計画は恵みそのもので、救いはただ恵みによる。私たちの側の何かが救いに至らしめたのではない。

私たちが神の恵みを知るとき、神の恵みに応えた生き方を選択するだろう。古い過去の生き方、生活様式を後にして、神に喜ばれる生き方を目ざすだろう(10節)。この10節は、ともすると、ないがしろにされやすい。救いは行いではなく、恵みによる、信仰による、と恵みを謳い、良い行いをないがしろにする教えが1~20世紀の間、説かれてきた。どんなに罪を犯しても、どうせ恵みで救われるんだから罪を犯しても大丈夫だと言わんばかりに、良い行いをないがしろにしてきた。これは恵みを恵みとしていないのであって、ある人はこれを揶揄して「安価な恵み」「安っぽい恵み」と評した。神は私たちに救いを与えるために、どれほどの犠牲を払われたのか、考えてみなければならない。ご自身の御子をなだめの供え物として、十字架にささげられた。それは高価な犠牲だった。ここまでの犠牲を払われたのは、私たちが罪のうちを歩むためではない。10節を無視して、恵みを考えてはならない。10節を念頭に、次のように言うことができる。「私たちは恵みによって救われた。私たちは良い行いによって救われたのではなく、良い行いのために救われたのである。」恵みは良い行いに進ませる。その良い行いも神の恵みなのだと知る。「その良い行いをあらかじめ備えてくださったのです」(10節後半)。

この10節で、キリストを信じた者たちは、良い行いに歩むように、キリスト・イエスにあって造られた「神の作品」であると知る。私たち人間は神の創造の作品であるが、ここで言われていることは、私たちはキリストに似るようにと新創造の恵みに与っているということである。内なる人が新しく創造された。外なる人は変わってはいないが、新しい人とされた。この創造の作品は、造られて終わりではない。お味噌や梅干しならば、寝かせて熟成させるといった作業が残っている。カレーやおでんならば、煮込んでさらに美味しくする作業が残っている。焼き物ならば、まだ熱を加えなければならない。そのような意味において、私たちはまだ途上にあると言える。ローマ8章29節によれば、この神の作品は「御子のかたちと同じ姿」と言われている。それが目に見えて現実のものとなる工程に私たちは置かれている。第二コリント3章18節では、こう言われている。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。それはまさに、御霊なる主の働きによるのです」。私たちは、さらに変えられる恵みに与り、行いにおいても成長させられる。この恵みを待ち望んで行こう。自分の力に頼ったら失敗する私たちである。私たちはキリストを離れては何もすることはできない。キリストに心を向け、力がないときは力をくださいと祈り、知恵が足りないときは知恵をくださいと祈り、愛と忍耐が足りないときは愛と忍耐をくださいと祈り、悪魔の誘惑を覚えているときはお守りくださいと祈り、主のみこころを成し遂げたときは、「すべては恵みです」と告白できる者となろう。救いはキリストのうちにある恵み100パーセントであり、救われた後もキリストのうちにある恵み100パーセントである。