聖書において、神さまの最初の問いかけのことば、質問は、「あなたはどこにいるのか」(創世記3章9節)である。この問いかけは、物理的にどこにいるのかという問いではない。もっと奥深い意味があって、神さまとの関係が問われているわけである。「あなたはどこにるのか」という問いかけを受けたのはアダムであった。アダムは、神さまから離れ、距離を置いていた。さて、皆さんは今、どこにいるのだろうか。

1章の前半では、パウロは「キリストのうちに」という表現を繰り返し用い、キリスト者とは、キリストのうちにあるのだ、キリストを住まいとしているのだということを確認させた。「キリスト・イエスにある」(1節)「キリストにあって」(3節)等、同様の表現が14節まで11回。「~にある」「~にあって」は原語で<エン>(英語のin)。それは「~のうちに」「~の中に」を意味することばで、場所を意味する前置詞。私たちはキリストの中にいる。キリストを住まいとしている。

1章後半の最初の節、15節では、「主イエスに対するあなたがたの信仰」とあるが、「対する」という前置詞も、「~のうちに」「~の中に」を意味する<エン>。信仰とはキリストの中に入るということであった。

1章後半では、私たちの住む場所であるキリストとは、すべての支配、権威、権力、主権の上におられる全天全地の最高権威者で、至高の御座に座しておられることを見た(21節)。パウロはここで天使的階級、特に堕天使である悪魔とその手下の悪霊どもを意識していることも学んだ。キリストは霊の世界のすべての階級の上に君臨する絶対権力者であり、このお方が教会のかしらであるということも学んだ。

2章に入って1~3節では、現在キリストのうちにある私たちは、かつては別ものの中にあったことを教えている。以前の私たちは第一に、罪の中にあった。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者」(1節)。「罪過」は罪の同義語で、「欠点、過ち、弱さ」等を意味する。「~の中に」と訳されていることばは<トイス>で、<エン>とともに領域、場所を意味することばである。1節を直訳すると、「あなたがたは自分の罪過と罪の領域の中に死んでいた者」となる。5節の「罪過の中に死んでいた」の「中に」も領域を意味する<トイス>が使われている。「死んでいた」は霊的な死のことである。神から切り離され、神のいのちを持っていなかったということである。それはアダム以来の人間の状態である。2節には「罪の中にあって」という表現が登場するが、「~の中にあって」は「~のうちに、~の中に」を意味する<エン>。キリストのうちにいないということは、罪のうちに、罪の中にあるということになる。罪の牢獄にいる、罪の奴隷状態にあるということである。罪を主人として生きているということである。パウロはこのことを「この世の流れに従い」という言い換えをしている。「流れ」と訳されていることば<アイオーン>は時代を意味することばだが、他の意味も持ち、悪魔の別名という解釈もあるが、新改訳は、この世の「慣習、生活様式」といった意味で捕えていると思われる。例えば、この世が是認する道徳的慣習と聖書が求める道徳的慣習は大きな違いがあることにお気づきだろう。肉の欲望に浸った生活様式を必ずしも罪としないのがこの世であることにお気づきだろう。かつての私たちはこの世に流され生きていた。けれども、そこから救い出され、キリストを主人とし、生活様式が変わった。ライフスタイルが変わった。

以前の私たちは第二に、今少し触れたが、肉の欲の中にあった。「自分の肉の欲の中に生き」(3節)。「~の中に」も<エン>。この場合の「肉」とは、堕落した人間の自己中心的性質を意味する。それは神が求めるものを欲しない。だから、肉の欲の中に生きている者たちを「不従順の子ら」と描写している。そして不従順の子らは「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であると言われている(ローマ1章18~30節参照)。

以前の私たちは第三に、悪魔の支配の中にいた。2節では悪魔を「空中の権威を持つ支配者」として描写している。ここで「空中」または「天空」と訳せることばがなぜ使用されているのかということだが、古代世界は、「空中」とは、天と地の間の中間にある領域で悪霊どもの住まいとして受け取られていた。悪魔はその悪霊どものかしらである。悪魔はヘブル語で「サターン」、ギリシャ語で「サタナス」。その意味は「敵対する者」。2節を見て気づくことは、この世の流れに従って生きることは、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従うことであるということ。神に対して不従順だということは、悪魔に対して従順だということになる。

けれども、多くの人々は、自分は悪魔に従順だなどと思っていないだろう。オカルトに手を出しているわけでないし、怪しい宗教に足を突っ込んでいるわけではないしと。けれども、次に挙げる四つの事柄についてはどうだろうか。一つは「宗教多元主義」。これは、宗教はどれも同じよという立場。あらゆる神々を認めて、崇拝行為をすることになる。結局は偶像崇拝の罪を犯すことになる。二つ目は「ヒューマニズム」。これは、人間の知恵、力を昇華する思想である。人間が最高位に来る。その上に神はいない。人間を神の地位にまで高めてしまう。人間を傲慢にし、自分たちに都合のいい好き勝手な基準で生きることを認めてしまう。三つ目は「物質主義」。モノ、お金を得ることが人生の目的。マモン崇拝である。四つ目は「快楽主義」。特に性的な快楽の追求である。文明の終末期に必ず登場する堕落である。今、述べた四つの事柄の背後に働いている霊的存在がいる。人々はそれに気づいていないだけである。

悪魔はこの世の支配者である。使徒ヨハネは言っている。「私たちは神からのものであり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています」(第一ヨハネ5章19節)。人間が自覚しているしていないにかかわらず、悪魔の力強い影響を、知性、感情、意志に受け、それに縛られ、神に背いて歩んでいる。しかしながら、パウロはコロサイ人の手紙1章13節で、「神は私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」と語っており、今、信仰者は、悪魔の支配の中ではなく、キリストの支配の中に置かれていることを明言している。「キリストのうちにある私たち」である。付言すると、キリストのうちにある私たちは、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従うのではなく、聖霊に従うものとされている。聖霊はキリストの御霊である。キリストと御霊の関係については5章で詳しく学ぶことにしよう。

今日の後半は、5~7節から、キリストのうちにあるということはどういうことなのかを学びたいと思う。まず6節を観察しよう。ここで「~のうちに」「~の中に」を意味するギリシャ語<エン>が二箇所で使用されている。一つは「キリスト・イエスにおいて」。私たちはキリストの中にある。もう一つは「ともに天の所に」の「所に」である。「所に」の原語にも<エン>が使用されていて、「ともに天の所に」を別訳すると、「ともに天の中に」である。キリストの中に置かれたということは、イコール、キリストとともに天の中に置かれた、ということである。これが救いの事実である。5,6節ではキリストとの関係で「~のうちに」の他にも特徴的表現がある。それは「ともに」である。三回使用されている。「キリストとともに生かし…ともによみがえらせ…ともに天の所に座らせてくださいました。これがキリストのうちにあることの恵みである。すべてがキリストとともにという恵みに与る。キリストのいのちは私のいのち、キリストの復活のいのちはわたしのいのち、キリストの地位はわたしの地位。すべてをキリストとともにする。「ともに天の所に」「ともに天の中に」と、そこまでともにする。

「ともに天の所に」「ともに天の中に」と言われても私たちには実感が薄いので、私たちが座らせていただいたという「天」についてもう少し考えてみよう。先ほど、2節の「空中の権威を持つ支配者」の説明のところで、「空中」とは古代世界の概念で、天と地の間の中間の領域と述べたが、「ともに天の所に」というのは、そうした悪霊どもの領域の上に置かれたということである。その高さは1章20,21節の描写が参考になる。キリストは悪魔に勝利し、この高さにまで上り詰められた。ヘブル2章14節では、「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」と、キリストの勝利が宣言されている。キリストは、今、その勝利の御座に着座されている。あるキリスト者が登山をして、山の頂上に達した時、下の方に雷雲があり、下の方で雷鳴が聞こえるという体験をした。その時、エペソ2章6節を思い起こしたという。自分が霊的にはキリストとともに天の所に座っていることを実感させられたという。

パウロはガラテヤ人への手紙2章20節において、「私はキリストとともに十字架につけられました」と述べたが、今日の箇所ではキリストの復活と昇天とも一つにされていることを述べている。キリストがいと高き天に挙げられたことは「高挙」という言い方を一般的にする。この高さは空前絶後の高さである。天と地のあらゆる権威を意識した高さで、あらゆる権威にまさる高さである。それは今見たように、悪魔、悪霊どもを足の下に置く高さなのである。この権威の座に私たちも座っているという。

パウロはなぜこのような描写をしているのだろうか。三つの理由を挙げることができるだろう。一つは自分たちの霊的地位に目覚めさせ、周囲の人たちと同じく、この世の流れに従って歩まないようにさせるためであると思われる。エペソは享楽を愛する堕落した町の一つであったので、彼らは自分の身分を忘れて生活する可能性があった。A.B.シンプソンは言う。「いったいキリスト教とは何を意味するかと言えば、それは新しい性質を人に吹き入れることである。たましいをいっそう高い世界へ、一段と高い地位に移すことである」。神さまは私たちを鉱物界の地位に置かない。植物界の地位にも置かない。動物界の地位にももちろん置かない。万物の霊長である人間界の地位に置くのでもない。私たちを神の子とし、この物質界を足元にする、さらに高い霊的世界へと引き上げられる。そして私たちを天の御国の律法をもって歩ましめようとされる。天の御国の気品をもって歩ましめようとされる。キリストの性質を身に帯びた者としての歩みである。古い生き方は下界に残して、天の御国の民として生きるのである。天の視座から、自分の生活を形づくるのである。

私たちに高い地位を示したもう二番目の理由は、私たちを悪魔に勝利させるためである。悪魔はキリストの十字架によって敗北した敵である。けれども降伏することを拒んでいて、今しばらくの間は戦いが続く。パウロは6章でこれをテーマに取り上げることになる。パウロは悪魔との霊的戦いを意識している。この戦いにおいて知っておくべきことがある。まちがった霊的世界観がある。光と闇、善と悪は同等の力関係にあり、いにしえより戦いが続けられているというものである。もうこうなると、最終的にはどちらが勝つかわからない戦いである。戦ってみないとどうなるかわからないという先の見えない戦いである。けれども聖書はそう言っていない。闇は光に打ち勝てない。キリストは世の光として登場し、十字架で闇の帝王を打ち破り、よみがえり、すべての霊的階級、組織の上に着座された。勝利はすでに勝ち取られた。私たちはこのキリストにありて生きるときに、敗北の生涯を選び取らなくてよい。私たちはキリストのすぐれた権威に信頼して、勝利の人生を生きることができる。キリストの御名によって祈り、誘惑から守っていただき、キリストの御名によって祈り、悪しき働きを封じることができる。お奉行が将軍の権威によって悪代官の仕業をくじくことができるようなものである。イエスさまは弟子たちに、「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです」(ルカ10章19節)と言われたことがある。私たちは今、キリストとともに勝利の御座に座っている。この立場に立って、信仰の戦いをしていくことができる。

私たちに高い地位を示す三番目の理由は、7節で言われている「すぐれて豊かな御恵み」を私たちに知らせるためである。天の所に座っているということが、最終的現実となるのが、7節で言われている「あとに来る世々」である。これは今の時代が過ぎ去り、天の御国が完成した時のことであると思われる。その時、天の祝福である「すぐれて豊かな御恵み」を完全に享受できる。今、私たちはその前味を味わう時代に生かされている。パウロはすでに、そのことを1章3節後半において「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と告げている。罪の赦し、永遠のいのち、神の子とされたこと、聖霊の内住をいただいたこと、暗闇の圧制から御子の支配に移されたこと、御国の市民権をいただいたことなど。

私たちは目に見える現実だけ見て生きていると、この世に絡み取られ、この世に流され、空中の権威を持つ支配者に振り回され、気づいたら天の所にいるどころか、下山して元のさやに納まってしまいかねない。地下牢にいるような者になってしまいかねない。だから、みことばを通し、自分とは誰でどのような者とされているのかを、しっかり心に留めたい。キリストにある私として、キリストの中にとどまり続けたい。キリストともに生かされ、ともによみがえり、ともに天の所に座らせていただいた者として、天上の空気を吸って、キリストとともに信仰の高嶺を歩んで行きたい。