本日より、エペソ人への手紙の講解メッセージを始める。エペソ人への手紙は、使徒パウロがローマの獄中から執筆したものと思われ、ピリピ、コロサイ、ピレモンと同じく、獄中書簡と呼ばれている。その内容は、健康なキリスト者生活及び健康な教会の姿の教えである。私たちはエペソ人への手紙を通して、健康になることを学びたい。

エペソは使徒の働き18章18,19節を見れば、パウロが伝道した町であることがわかる(人口約25万人)。エペソは小アジヤの西海岸にある町で、偶像崇拝が非常に盛んであった。また経済的に繁栄していて、人々は富と快楽に溺れていた。ある意味、偶像崇拝や快楽に溺れることは、現代の日本以上のものがあると言ってよい。このような環境に置かれていたエペソ教会の人々は、自分とは何者で何のために生きているのかをはっきりと自覚していなければ、この世の流れに勢いよく流され、ただの人のようになってしまい、神さまとの関係が冷めたものになる危険があった。

パウロは1~2節で、あいさつ文を書いている。古代の手紙文は、最初に、差出人と受取人が書かれ、そしてあいさつのことばがくる。そして通常のあいさつに続いて、祈りのことばが入る。それはしばしば、受取人の健康を願う祈りである。しかし1章を見る限り、健康を願う祈りはない。その代わりに、神がほめたたえられるようにという文章と、キリスト者としてふさわしく生きるようにというとりなしの祈りが記されている。

今日のタイトルは「キリストのうちにある私」であるが、1~14節において、特徴的な表現がある。それは「キリストのうちに」である。それを表わす表現が全部で11回も登場する。1節「キリスト・イエスにある」、3節「キリストにあって」、4節「彼にあって」、6節「愛する方にあって」、7節「この方にあって」、9節「この方にあって」、10節「キリストにあって」、10節「この方にあって」、「この方にあって」(11節)、13節「この方にあって」が2回(13節欄外註)。「~にあって」と訳されていることばは<エン>(英語のin)である。意味は「~の中に、~のうちに」である。今、皆様のからだは教会堂の中に、教会堂のうちにある。しかし他の現実もある。<エン>は場所的な意味をもつことばなので、キリスト者が住まう場所はキリストであるということである。キリスト者とは「キリストのうちにある私」なのだということである。詩編90篇1節では、「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」という告白がある。主に住まう、主に住んでいるというのは、主の支配の中にあるという意識、また人でも物でもなくただ主に信頼しますという意識である。

パウロは、キリストのうちにあるならば、霊的祝福があるのだと語っている(3節)。「天にあるすべての霊的祝福」と言われている。パウロはこの霊的祝福を幾つか紹介している。第一に、「選び」である(4節)。選びというのは祝福の大御所的事実である。選びという動詞を観察すると、無造作に意味もなく選んだということではなく、サイコロを振ったらたまたまこの人になったということでもなく、他の何かに影響されて選んだということでもなく、神の自己決定的、自主的選びであるということである。そしてもちろんこれは、私たちが神を選んだように見えてそうではなく、神が主権を働かせて、私たちを選んだということである。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハネ15章16節)。私たちが選んだということではなく、選ばれたということにおいて、それは恵みでしかない。

いつ選んでくださったかというのなら「世界の基の置かれる前から」。これは創造のみわざに先だった昔というよりも、永遠の昔からというニュアンスである。つまり、神さまが神さまだった時から、キリストのうちに選ばれていたということ。

選びの目的は、「御前で聖く、傷のない者にしようと」すること。神はレビ記19章2節で「わたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」と命じられた。これは新約の教えからすると、キリストに似た者へと形造られることを意味する。キリストと似た者と変えられること、それが選びの目的と言えるだろう。

選びの動機は「愛」である(5節)。神がなぜ私たちを選ぼうとされたのかと問う時、私たちは神の永遠の愛を見い出す。それは世界の基の置かれる前からの永遠の愛である。永遠の愛は現実にある。私たちはその愛で愛されている。「愛をもって」ということばは<エン アガペー>で、「アガペーの愛のうちに」である。私たちは永遠のアガペーの愛で取り囲まれている、抱擁されている。その愛はキリストの十字架によってはっきりと啓示された。私たちは無機質的な選びではなく、キリストの愛のうちに選ばれた。この事実に感動を覚えたい。

霊的祝福の第二は、「神の子」とすること(5節)。これも選びの結果である。神の子という身分は、この世の王子の身分よりもはるかに高い。私たちは、自分はこの世の人たちと何ら変わりがないと錯覚に陥る危険がある。自分のキリストにある高貴な身分を覚えておきたい。私たちは神の子とされている。

霊的祝福の第三は、「罪の赦し」である(7節)。それはまず、キリストの「血による贖い」として説明されている。「贖い」という用語は、古代市場の売り買いにルーツがある。それは代価を払って、ある物や人物を買い戻すという概念がある。この手紙が執筆された1世紀当時、ローマ帝国内には6千人ほどの奴隷がいたと言われている。奴隷が自由になるためには、代価が支払われなければならない。キリストは私たちを罪の奴隷から解放するために、代価を払ってくださった。それはご自分の血であった。レビ記17章11節では「いのちとして贖いをするのは血である」と言われている。キリストが十字架上で流した血は、ご自分のいのちを意味していた。そのいのちはキリストの何かというよりも、キリストのすべてであり、ご自身を与え尽くしたということである。そのことによって、私たちを罪と滅びから救い出そうとしてくださった。イザヤ61章1節のキリスト預言では、「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とある。こちらは罪人のことが、捕虜、囚人のイメージで言われているが、これらの人を救い出すためにも代価が払われた。

私たちのために払われたのは、キリストの血の代価。キリストの血が私たちのすべての罪を覆い、私たちの罪を消し去ってくださる。私たちの罪がキリストの血の下に置かれる。すなわち、それが罪の赦しである。これは「神の豊かな恵みによる」ことである。ヘブル語で恵みとは、上位の者から下位の者に対する神のあわれみを意味している。ギリシャ語<カリス>は、喜び、美しさ、親切、好意といった良き性質のものをすべて含んでいる。神の恵みという場合、それを受けるに価しない罪人に対する神の驚くばかりの好意を意味している。私はそれを受けるに価するでしょ、とやっている人がいるが、その人は恵みを恵みとしていない。この恵みはカルバリーの十字架ではっきりと啓示された御子の血による贖いであり、罪の赦しである。

パウロは罪の赦しの恵みから、キリストにある遠大な救いの計画へと筆を進めている(9,10節)。「みこころの奥義」とは、昔おおわれていたが今そのベールを脱いだ、キリストにある遠大な救いの計画のことであり、そこには被造物の回復の恵みも含まれている(10節)。これは救いが完成した世界である新天新地を意味している。やがてキリストにあって万物は再統合され、その世界はもはや朽ち果てることのない。それは完成した御国のことである。

霊的祝福の第四は、「御国を受け継ぐ」ということである(11節)。だから将来どうなるかと案ずることはない。私たちはキリストにあって御国を受け継ぐ者とされた。だから、私たちには希望がある。御国の門は私たちに開かれているので、この世の艱難辛苦の中でも、絶望することはない。またこの世に執着することなく、この地上では寄留者のような精神で歩むことが必然となる。

霊的祝福の第五は、「聖霊の証印」である(13,14節)。「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより」とある通りに、福音を信じ、キリストを信じた者には聖霊が与えられている。聖霊の恵みはもろもろあるが、パウロはここで「御国を受け継ぐことの保証」となる働き一点にしぼっている。「保証」ということばは、完全な支払を保証する頭金のことである。分割払いの一回目の払込金のことである。それは手付金のことである。手付金は完全な支払の保証となって、契約が成立するわけである。聖霊が何の保証となっているかということだが、御国の相続を保証しているということである。この聖霊が証印となっている。「証印」とは、古代も現代も所有権を証明する印である。キリストを信じる者は聖霊の証印が押されているので、御国を受け継ぐことができるのだろうか、救われるのだろうか、などと心配する必要はない。たといこの世で貧しくとも、やがて御国の資産を受けることになる。それは聖霊によって保証されている。

さて、今、五つの霊的祝福を見てきた。選び、神の子、罪の赦し、御国を受け継ぐ、聖霊の証印。これらはキリストにある霊的祝福である。誰でもキリストを信じ、キリストのうちにあるならば、これらの祝福をいただいている。おのれがキリストのうちにあるということを確認しながら、これらの一つひとつの祝福に感謝しよう。パウロがこれらの霊的祝福を述べることにおいて強調したいことがある。パウロが本日の箇所で意図的に多用しているのは「キリストにあって」という表現だけではない。もう一つある。それは「神をほめたたえる」という表現である(3節前半、6節、12節、14節後半)。

私たちキリスト者の生きる目的は何だろうか。神の栄光がほめたたえられるために生きるということである。一度、信仰をもったかのように見えて、教会から去る人たちが多いと言われる。その理由を聞くと、信じたのに特にいいことが起きなかったとか、家族にいい顔されないからとか、めんどうくさくなったとか、そういう理由が多い。パウロの意識とずいぶんかけ離れているのではないだろうか。みこころの奥義という遠大な救いのご計画の中で、やがて御国は完成する。今の物質界は巻物のように消え去り、新しい世界が訪れる。そこでは、主なる神だけが王としてあがめられる。自分の利得ばかりに心を留めている場合ではない。自分の狭い世界観は変えなければならない。

また過去に目をやり、「選び」ということを観点に考えてみよう。私たちの人生はいつ始まったのだろうか。この地上に誕生した時からか。それとも、母親の胎内にいのちが宿った時からか。いや、それよりはるか以前に、神の心の中ですでに始まっていた。世界の基の置かれる前より、神の愛の御胸の中で、キリストのうちに覚えられており、救われるべく、神の子どもとなるべく選ばれていた。なぜ選ばれたのか。一人ひとりが目的をもって選ばれている。それは神の栄光を現すためである。この世に埋没したり、偶像崇拝をしたり、名目上のクリスチャンをやるためではない。神さまは私たち一人ひとりに、こうして欲しいという具体的な目的もお持ちだろう。私たちは無意味に選ばれていない。キリストが弟子たちに語ったことばをもう一度思い起こそう。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり…」(ヨハネ15章16節)。神の選びには目的がある。自分さえ救われていればそれでいい、と思ってしまうことは間違い。自分一人ぐらいどうなっても、と思うのは間違い。神の栄光を現すために選ばれている。そして、あなたにはこうしてほしいのだと具体的目的をもって選ばれている。だから、私はどうすることが神の目的にかなっていることだろうかと、一人ひとりが考え、祈り、実践していただきたい。

その際、忘れてならないことは、歴史の中で与えられた神の恵みである。6節には、「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」と、「恵みの栄光」という表現が採られている。恵みの栄光は、カルバリーの十字架で輝いている。神の救いのみわざの中心は、キリストの十字架による贖いである。罪深く、何のいさおしもない者が、キリストの十字架は私の罪のためと信じるときに、ただ恵みによって罪赦され、救っていただける。神の子とされ、御国の民とされる。ある人は、礼拝とは神と神のみわざに目を注ぐことだと言っている。神と神のみわざに目を注ぐときに、神に栄光あれとたましいは叫ぶ。その神のみわざの中心はキリストの十字架による贖い。それは恵みの十字架。救いに必要なすべてはキリストが成し遂げてくださった。十字架を仰ぐことがなおざりにされるとき、人の心は神から離れていく。神のために生きる心を失っていく。自分の栄光のために生きる人生さえ選びかねない。パウロは繰り返し、繰り返し、「キリストのうちに」「キリストにあって」という表現を繰り返し、私たちとキリストとの関係を明らかにしようとしている。「キリストのうちにある私」である。そのキリストは、私たちの罪のために十字架の上でいのちまで献げて、私たちを救ってくださった方である。私たちの罪の負債を完済し、御国へと招いてくださったお方である。永遠の愛をもって、あらかじめ神の子どもにしようと定めてくださったお方である。私たちが救われたのは、ただキリストにある恵みによる。私たちは、残された人生を、この恵みに応えていきたい。そして、すべては神の栄光に向かってと、神の栄光をほめたたえ、神の栄光が現されることを心から願っていきたい。