28章が福音書の最終章である。物語はクライマックスを迎える。それはキリストの復活である。キリストの復活はクライマックスというだけではなく、神の贖いの歴史の中心的イベントである。それはまたクリスチャンの信仰の礎である。もしキリストの復活がなければ、クリスチャンの信仰には意味がない。パウロは言っている。「もし、キリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今、罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」(第一コリント15章17~19節)。神に属する人々にとって死は終わりではないという復活の希望は、キリストの復活によって与えられる。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(第一コリント15章20節)。キリストの復活は、私たちの復活を保証するものである。

琉球王国の不可思議な話を聞いたことがある。そこを訪れた人が奇妙な多くの墓を発見した。墓の製造者が、葬られたキリシタンの体から切り取られた一万一千以上の首を見つけた。調査の結果わかったことは、1637年に琉球を支配していた日本の為政者たちが、キリシタンを根絶するよう命令を下した。為政者たちはキリシタンたちが復活を信じていたので、胴体から切り離した信者の首を、胴体から遠く離れた場所に葬ったというのである。それはキリシタンたちの復活を恐れた行為であった。

では、クリスチャンたちの望みとなるキリストの復活の記事を追っていこう。キリストが復活する前の弟子たちの記述は、金曜日で終わっている。27章61節までが金曜日の記述である。キリストは金曜日の午後3時頃に息を引き取った。金曜日中に葬りを済ませなければならない。安息日は休みの日として日常の手仕事は許されていなかった。ユダヤの日の計算の仕方では、夕方6時頃から安息日が始まる。よって金曜日の終わりまで残された時間は3時間弱。アリマタヤのヨセフらの手によって、限られた時間の中で、香料を使って亜麻布を御体に巻き、墓に納めるという作業がなされた。しかし葬りとしてはまだ不十分な思いが女たちの心の中にあった。27章61節の時点で女弟子たちの心にあったのは、私たちを愛してくださった主に対して、どうして差し上げたらいいのだろうか、主を手厚く葬ってあげたい、ということであった。ただ悲しみにくれていただけではない。彼女たちは、主の御体にしてあげたいことをイメージしながら、墓のほうを向いていた。他の福音書からわかることは、この後、彼女たちは、安息日が始まるわずかな時間を使い、香料を買い求め、香油も準備し、日曜日に備えたということである。

さて、安息日が終わった。「週の初めの日の明け方」を迎えた(1節)。夜明けは朝の4~5時である。女たちは墓に向かった。遺体の処置をする香油、香料を持って(ルカ23章56節~24章1節)。彼女たちの心は一心にキリストに向いていた。その女たちとは「マグダラのマリヤと、ほかのマリヤ」と言われているが、「ほかのマリヤ」とは27章56節で言及されている「ヤコブとヨセフとの母マリヤ」である。すなわち使徒アルパヨの子ヤコブの母マリヤのことである。他の福音書を見ると、この時、他の女性もいたようである。それは27章56節に言及されている「ゼベダイの子らの母」である。すなわち、使徒ヤコブとヨハネの母サロメのことである。彼女たちはキリストが埋葬されている墓に急いだ。

ユダヤ人の伝統的な考え方として、死んだ人の霊はその体から四日目に去るというものがあった。体が腐って行き外観が損なわれるのが四日目。つまり、体の外観がしっかりしているうちは、霊はその体にとどまっていると思い込んでいた。その考え方が良くわかる記述がラザロの死に関しての姉マリヤのコメントである。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」(ヨハネ11章25節)。四日目は生き返るのは無理ですよ、ということ。だからユダヤ人は死んだら三日目頃まで足を運び、霊が離れ去ると思われている体に香油や香料を塗った。彼女たちはその習慣にならい足を運んだと言えるかもしれないが、彼女たちの行為は習慣うんぬんを超えていた。それは「明け方」に足を運んだということからわかる。「明け方」という時刻は、彼女たちの愛情の大きさを物語っている。早くかけつけたい、という思い。彼女たちはキリストが復活することを信じていなかった。けれども大きな愛と献身の思いがあった。彼女たちはキリストの死後もひたすらにキリストに心のまなざしを向け続けていた。

墓に着く頃、着いた頃、「大きな地震」が起こった(2節前半)。この地震はマタイだけが記しているものだが、地震はこれで二度目である。十字架の場面でも起こった(27章51節)。この大きな地震に何か意味があるのだろうか。実は、モーセに十戒が与えられる前にも地震が起きている。シナイ山が激しく震えた(出エジプト19章18節)。大きな震えはキリストの十字架と復活の際にも起きたということになる。何か暗示的である。律法の旧い時代が終わり、新しい時代の幕開けを感じる。新しい契約の時代の幕開けである。

大きな地震は御使いと関係づけられている。「それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである」(2節後半)。マリヤたちにはマルコ16章2節に記されているように、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」という心配があった。女性たちでは取り除くことができない大きさと重さである。この心配は、神ご自身が解消してくれた。そして人を死に閉じ込めていた石の上に御使いが座ったという、このポーズそのものが、死に対する勝利を物語っているかのようである。

さて、多くの人が、クリスチャンでさえも勘違いしていることがある。それは、主の使いが石をわきに転がしたので、キリストは墓穴から出てくることができたという理解である。それは違う。ヨハネの福音書を見ると、キリストの復活したからだは、巻いた亜麻布からスッポリ抜け出ている(ヨハネ20章7節)。またその後、キリストは戸が閉じられていた部屋の壁を通過して弟子たちの前に現れている(ヨハネ20章26節)。つまり、復活した栄光のからだは物理的障害を障害としないということ。だから、主の使いは、キリストを墓から出してあげるために石を転がしたのではない。主の使いが石をわきに転がした理由は、キリストが復活して空になった墓を、彼女たちに、弟子たちに、見せるためである。

出現した主の使いはどのような姿であったのか。3節の「その顔はいなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった」という描写は、御使いの外的特徴をよく表している。主の使いは主の栄光と聖さを身につけている。それを見てしまった人間の反応が4節に・・・。番兵たちの「震え上がり」ということばは、2節の「地震」ということばと同じことばに由来している。彼らは自分自身のうちに地震を経験した。彼らはからだも心も揺さぶられたのである。「死人のようになった」とは恐怖のあまりの麻痺状態だが、単にからだが硬直したというのではなく、失神して意識を失ったのであろう。それほどまでに恐れたのである。

女たちもまた恐れた。でも主の使いは女たちをも恐れさせるために出現したわけではないので、5節で「恐れてはいけません」と彼女たちを安心させようとしている。主の使いが女たちの前に現れた理由は三つある。第一は、キリストの復活の預言を思い起こさせるため(6節前半)。主のよみがえりの預言は旧約聖書に記されているだけではなく、「前から言っておられたように」と、主ご自身が何度も語っておられた。にもかかわらず、まともに信じた弟子は誰もいなかった。結局、人間は自分が信じられることしか信じない、自分が信じたいことしか信じない。私たちがこれを教訓にして心に留めなければならないことは、主のことばをそのまま信じるということ。21世紀に入り、情報は氾濫し、価値観も益々多様化し、時代のスピードが加速している中にあって、何をどう信じたらいいかわからない時代になってきた。昨日まで信じられてきたような価値観が簡単に時代遅れとされてしまう。昨今は、科学偏重主義と、それに相反する神秘主義とが同時にもてはやされ、混在し、混乱を招いている。クリスチャンたちも混乱している。だが私たちが信じ、すがるべきは、主のみことば、聖書である。ここに絶対的な価値観を置いて、信じるのである。主のみことばは何と言っているのか、それがすべてである。自分の知性、感性が何を信じたいか、何が信じられるかではない。「主のみことばはまじりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀」(詩編12篇6節)。

主の使いが女たちの前に現れた第二の理由は、復活の証である空の墓を見せるためである(6節後半)。主の使いが石を取りのけた理由はここにある。空の墓はキリストが復活した証拠である。ペテロやヨハネといった弟子たちも、女弟子たちに遅れて空の墓を見ることになる。

主の使いが女たちの前に現れた第三の理由は、弟子たちにキリストの復活のメッセージを伝える伝言を与えること(7節)。彼女たちはこの伝言を聞いてどうしただろうか。「・・・急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った」(8節)。7節で「急いで行って」と主の使いに言われ、「急いで墓を離れ」、しかも「走って行った」。読んでいるだけで息が切れてくる光景である。彼女たちが伝言を伝えるために走る姿は、マラソンの語源である「マラトンの戦い」を思い起こす。紀元前490年、ペルシャとギリシャの戦いがあって、ギリシャが勝利すると、伝令の兵士がギリシャのマラトンからアテネまで約40キロをひたすら走って、アテネの町に着くと、「わが軍勝てり」と一言叫んで、息絶えたと言われている。彼女たちは最初、「恐ろしくはあったが大喜びで」と気が転倒しながら走り出したと思われるが、この後見るように、復活の主と出会い、確信が与えられ、喜びは倍増し、興奮しながらひた走ったと思われる。キリストがよみがえられたという良いニュースは、戦争の勝利にも優るニュースで、すぐにでも言い広められるべきニュースであった。

途中、彼女たちの前に復活の主が姿を現された。彼女たちが確信をもって主の復活を伝えることができるようになるために(9節)。「おはよう」というあいさつのことばは、直訳は「喜びあれ」。別訳として「ご機嫌いかがですか」でもいいし、「やあ!」でもいいかもしれない。そのあいさつに対する彼女たちの応答は、「近寄って、御足を抱いてイエスを拝んだ」。「御足を抱く」という行為は、尊敬・敬意を表す行為で、王様に対して表わされたものである。彼女たちの行為は、キリストが王であることの象徴的行為となっている。そして「拝んだ」(別訳「礼拝した」)という行為は、キリストが神であることを表わす象徴的行為となっている。この場面で一つだけ付け加えると、「御足を抱いた」ということにおいて、キリストは確かにからだをもって復活されたのであって、幽霊ではないことを確信させる。

復活の主は、主の使いが与えたメッセージをくり返す(10節)。これは意気消沈している弟子たちへの希望のメッセージである。男弟子たちは部屋の中で縮こまっていた。エルサレムのある場所に、人目を恐れて隠れていた。落胆とため息の人生に自分たちを閉じ込めようとしていた。敗北者で終わろうとしていた。彼らは主のよみがえりのニュースを聞き、主と出会うことを必要としていた。そして主との出会いが必要なのは弟子たちだけではない。全人類が必要としている。罪と死の虜になり、本当の希望を失っているからである。キリストの復活を知った私たちも、彼女たちとともに喜び、主を伝えるのである。

最後に、復活の最初の証人として女性たちが描かれているということを強調して終わりたい。キリストの時代のユダヤ人は女性の証言に小さな価値しか与えていなかった。女性の言うことは信用に価しないと。そのような文化的背景がある。しかし、神はこの重要なみわざの最初の証言を女性にゆだねた。復活の主に最初にさわったのも女性(9節)。復活の主を最初に礼拝したのも女性(9,17節)。復活の主を最初に信じたのも当然のことながら女性。男弟子たちは、最初、彼女たちの報告を受けたとき、たわごとを言っているとして信用しなかった。「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」(ルカ24章11節)。だが、彼女たちの話は真実であった。こうして使徒たち、そして教会は、女性たちの証言に頼ることになる。

すべてに神さまの計らいがある。キリストの降誕の知らせは、社会的地位の低い羊飼いたちにあった。そしてキリストの復活の知らせは、これら女性たちに。彼女たちはガリラヤ伝道からずっとキリストに仕え、そしてキリストとともにエルサレムに上ってきた献身的な人たちだった。十字架の場面でもキリストに愛のまなざしを注いでいた。そして十字架から取り下ろされ墓に葬られる様も見届け、そして男たちが帰った後も墓にとどまり続け、主に対してどのようにして差し上げたらいいのだろうか、こうしてあげたい、ああしてあげたい、もっとこうしたいと考えて時を過ごし、準備に入り、週の初めの日に誰よりも早く墓に足を運んだ。墓には女たちの手では動かせない石が立てかけてあることくらいは知っていたはずだが、その大きな重い石も、キリストへの愛の行動をくじけさせるものとはならない。愛がすべてに優った。体の強さ、権力、合理的判断、そうしたことはキリストの証人の資格ではない。キリストへの愛、献身的愛、それがすべてである。愛をもつとき、障害は神ご自身が取り除けてくださるという言い方ができるかもしれない。

この復活の場面で、遺体に香油、香料を塗るのは主に女性たちの仕事だったから、女たちが最初に行くことになったのは当然だとか、男弟子たちはユダヤ当局とローマに目をつけられていたから、女たちが最初に動いたのは自然な流れだとか、そういう理由で女弟子たちの存在を平凡なものにしてしまうことはできるだろう。だが、それはできない。マタイの福音書では他の福音書と違って、意図的にか、女たちが香油、香料をもって墓に向かったことを告げていない。1節の後半にあるように、「墓を見に来た」と記すだけである。これはキリストに向けられている彼女たちの心をクローズアップさせる描写である。キリストに向けられている心は誰にも負けてはいない。だから、早朝、いの一番で向かった。彼女たちの関心は、ひたすらに、5節で言われている「十字架につけられたイエス」である。十字架につけられたイエスに対する愛、それがすべてである。