今日はキリストの埋葬の場面を見よう。「埋葬」とは土中に葬ることを意味し、土葬が想定されている。日本は火葬率99パーセント以上で世界一。だが日本において土葬は法律で禁止されていない。火葬も土葬も平等に扱われる。ただ自治体で禁止するところが多いというだけのこと。禁止する自治体が増えたのは、昭和の初めに伝染病予防法が出されたのがきっかけだったという。その他、土葬だと埋葬のスペースがない、手伝いが大変であるなど、いろいろな理由で火葬が一般的になってきたが、土葬もできる。自分の住んでいる自治体で許されない場合、他で頼んでみればいいわけである。県内全てで土葬を禁じているのは山口県だけである。火葬場のない山間へき地などは今もって土葬である。土葬を扱う専門業者もいる。

主キリストの場合は、土に埋められるというのではなく、大きな墓穴に安置するとう埋葬形態であった。「埋める」とも少し違う。だから単に「葬り」でいいかもしれない。このキリストの葬りの場面で心に留めたいのは、葬りに際して働いた神の御手の働き、そして十二使徒たち以外の弟子たちの信仰ということである。

今日の場面は「時は夕方」である(57節)。午後3時から午後6時までが夕方の時間帯とされていた。キリストは午後3時に息を引き取っている(46節)。キリストは夕方の初めに息を引き取ったということであり、一日の終わりに息を引き取ったということになる。ユダヤの日の計算では、午後6時で一日が終わることになる。キリストは金曜日の夕方に息を引き取った。午後6時を回ると、土曜日の安息日に入る。

参考として、ヨハネ19章を見ていこう。最初にヨハネ19章31~33節をお開きください。ユダヤ人は安息日を汚さないために、人為的な手段によって、安息日前に死亡させるようピラトに願い出た。ローマの法律では、十字架にかけられた犯罪人を息があるうちに十字架から下ろすということは許されなかった。十字架にかけられた犯罪人の死を早めるために、あの世に送る手段は幾つかあったが、この時取られた手段はすねを折るということ。犯罪人は足に体重がかけられなくなり、胸が圧迫され窒息死する。キリストとともに十字架につけられた犯罪人はこの処置が取られたが、キリストはすでに死亡していた。安息日前に死亡というのは摂理であったように思う。そして、すねを折られなかったということにおいて、詩編34編20節の預言が成就した(ヨハネ19章36節)

犯罪人の死が確認されると、遺体は十字架から下ろされる。下ろされた犯罪人の遺体は、通常どうされたのだろうか。引き取り願いがなければ、通常は犯罪人用の墓穴に投げ込まれた。ローマ人は処刑された者をおもんぱかる処置を取るとは限らず、肉食の動物や鳥の餌にしてしまうべく、開いた墓穴に投げ入れることをした。時々は、ごみ焼却場に投げ捨てた。エルサレム郊外には、ヒンノムの谷という絶えず火がくすぶっている焼却場があった。そこは地獄を想起させる場所であったが、そこに投げ捨てたりもした。キリストはこうした処置をされてもおかしくなかった。

キリストが亡くなった時、使徒たちはゴルゴダの丘から去ってしまったようである。ただ少数の忠実な女性たちだけがとどまっていたようである。彼女たちはキリストの遺体をどうすることもできない。彼女たちはガリラヤから来た者たちが多いので、エルサレムにキリストを葬る場所など持っていなかっただろう。それに安息日が始まるまでわずかの時間しかない。3時間を切った。キリストの遺体はどうなってしまうのだろうか。犯罪人専用の開いた墓穴に投げ込まれ、野獣や鳥の餌になってしまうのだろうか。ごみ焼却場に投げ入れられてしまうのだろうか。だが案ずることはない。神はひとりの男の心を動かした。「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ」(ヨハネ19章38節)。

「ヨセフ」はキリストの弟子となっていた。彼の素性を紹介しよう。「アリマタヤ」出身である。アリマタヤはユダヤの町で、エルサレムの北にある町であると思われる。彼はマタイ27章57節では「金持ち」と言われているが、単なる金持ちではない。マルコ15章43節では「有力な議員」と言われている。すなわちユダヤ議会サンヘドリンのメンバーである。サンヘドリンはユダヤの最高法廷で、律法学者、パリサイ人、サドカイ人、民の長老等、合計71人で構成されていて、大祭司が議長であった。彼らがキリスト殺害計画の首謀者であったが、彼らの中から幾人かが隠れ信者になっていたようである。

通常、遺体を下げ渡すとき、犯罪人の体は家族に下げ渡されることが多かった。けれども下げ渡しの願いは拒否されることも多かった。つまり、ローマに逆らった見せしめとして、犯罪人専用の開いた墓に投げ込んだり、ごみの山に投げ捨てたりして、ローマに逆らうとどうなるか思い知らせた。ところがピラトは、ヨセフの申し出をすんなりと受け入れたようである。その理由は幾つか考えられるが、いずれユダヤ議会の有力議員という立場がモノを言ったことはまちがいない。

ヨセフはキリストを葬る行動に出ることにおいて、サンヘドリンのメンバーから怒りを買う可能性があったし、ピラト側からもいろいろ言われる可能性があった。けれどもキリストへの愛がこうした恐れに優った。そして思い切って下げ渡しを願った。

ヨセフはピラトの許可を得た後、十字架からキリストの体を取り下ろす。彼は金持ちで地位もあったので、しもべたちもいたであろうから、しもべたちに手伝わせたかもしれない。しかし、聖書がはっきり告げているのは、別のサンヘドリンのメンバーの手伝いである。ニコデモである。ヨハネ19章39~40節を見よ。ニコデモはヨハネ3章1節において「ユダヤ人の指導者」と言われているが、議員のことである。二人とも隠れ信者になっていた。自分たちをキリストの弟子であることを公けにして従ってきた十二使徒たちは、十字架の場面を前にキリストから離れ去ってしまった。しかし自分たちの信仰をひた隠しに隠してきた二人の弟子が、キリストの葬りの場面において、いわば信仰を公けにし、用いられることになる。このコントラストはユニークである。神さまはいろいろなタイプの弟子たちを備え、適材適所としてお用いになる方である。

キリストの葬りを観察すると、十字架刑の犯罪人にはそぐわない王様に対する葬りのようである。まず傷口を洗い、そして香料をふんだんに使って、きれいな亜麻布で包んだ(「没薬とアロエを混ぜ合わせたものおよそ30キログラム」ヨハネ19章39節)。時間が余り残されていない状況を考えると、また死刑囚に対する処置ということを考えると、異例の処置である。これほどに念入りな葬りの処置の記事は聖書でも珍しい。しかも葬られた墓は「まだだれも葬られたことのない新しい墓」であった(ヨハネ19章41節)。王の王、主の主であられるキリストにふさわしい葬られ方と言えよう。そして葬られたのは金持ちの墓であったということにおいて、「彼は富む者とともに葬られた」(イザヤ59章9節)の預言が成就することになる。ヨハネ19章41節は、また興味深いことを教えている。都合のいいことに、ヨセフは処刑場のゴルゴタの近くに墓を所有していたのである。処刑場から墓まで遠かったら、安息日前に葬ることは難しかったであろう。父なる神はキリストが葬られる墓をあらかじめ備えていてくださったのである。こうしてキリストは、金曜日が終わる前に葬られたのである。すべてに神の御手が働いていた。

マタイ27章に戻ろう、墓に遺体を納めたら、大きな石で蓋をして塞ぐ(60節)。それは遺品を一緒に入れることがあったので、盗っ人が入らないためということと、肉食の動物や鳥が入って、遺体を損なわないためということがあった。

この後、注目は女弟子たちに移る(61節)。ヨセフとニコデモは帰ってしまっても、これらの女性たちは「墓のほうを向いて座っていた」。この時点で男弟子はいない。60節で「帰った」とあるから。でも女たちは帰らない。もうすぐ安息日が始まるとわかっていたが、キリストの墓近くにとどまった。女弟子たちはそれまで、ヨセフらとともにキリストの葬りを手伝っていた可能性がある。彼女たちの存在は十字架の場面にもあった(56節)。彼女たちの素性を簡単に紹介しよう。「マグダラのマリヤ」の「マグダラ」とはガリラヤ湖西岸にある町の名前である。彼女は悪霊を追い出していただいた女性である。「ヤコブとヨセフとの母マリヤ」は、使徒のひとりアルパヨの子ヤコブの母親のことだろうと推察できる(マルコ15章40節)。「ゼベダイの子らの母」とは、兄弟使徒ヤコブとヨハネの母親のことである。別の観点で彼女たちを見ると、「マグダラのマリヤ」は独身女性の弟子ということになる。「ヤコブとヨセフとの母マリヤ」という紹介は、子どもとの関連で言われていて、母親である女弟子たちと言い換えることができる。「ゼベダイの子らの母」という紹介は、夫ゼベダイとの関連で言われていて、妻である女弟子たちと言い換えることができる。女性にも「独身、妻、母」と様々な立場があるが、それぞれ違った立場の女性が、しかし、キリストの弟子ということで同じくされ、仕えていく。これが現代の姿でもある。女性たちはキリストの復活の第一目撃者ともなる(28章)。それは偶然ではなく、安息日が始まる近い時間まで「墓のほうを向いてすわっていた」という彼女たちの愛情の延長にあるものであった。

先ほど、葬りの処置として、きれいな亜麻布を巻くことと香料をふんだんに使用したことを述べたが、安息日が迫っていたので、それでも彼女たちが納得できる完全で十分な処置ができなかった可能性がある。残った処置は安息日が明けて、自分たちの手で日曜の早朝にしようと思っていたのかもしれない。日曜日は死後三日目であったが、死後三日目まで頃が遺体に処置する期間でもあった。ルカ24章56節では「そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には戒めに従って休んだ」とある。マルコ16章1節では「香料を買った」と記されている。すなわち、彼女たちは、墓から戻ると、滞在場所に戻る途中か、安息日が始まるまでのわずかの時間を使い、香料を買い、キリストのご遺体に会う備えをしたということである。おそらく61節の時点で、彼女たちは墓のほうを向きながら、もっとああしてあげたい、こうしてあげたい、そのようなことを考えながら過ごしていたのだろう。ただ悲しみにくれていただけではない。主のすばらしさを思い返して、主が自分たちにしてくださったあわれみを思い返して、自分たちにできるせいいっぱいのことをしてあげたい、と思っていたであろう。そして墓から戻り、安息日が始まるまでのわずかの時間を使い、愛する主のためにせいいっぱいの用意をし、日曜日に備えた。

四世紀の説教者クリュソストムスは、61節の場面から次のように語っている。「あなたは、女たちの勇気を見るか。彼女たちの愛情を見るか。彼女たちの金に淡白な心を見るか。死に至るまでの淡白な心を見るか。われら男性も、この女たちに見習おうではないか。われわれも試みの中で、イエスを見捨てぬようにしようではないか。彼女たちは死んだイエスにさえ、あのように費やし、命をささげたのに、われわれは、彼が飢えた時に食べさせず、裸の時に着せず、彼が乞うのを見ても、通り過ぎてしまうのだから」と彼女たちを持ち上げている。いずれ、墓のほうを向いてずーっとキリストに心を向けて座っていた彼女たちの愛情には心を打つものがある。そして打算を越え、理屈を越え、ひたすらにキリストに仕えようとした彼女たちの愛情には頭が下がる。

翌日を迎える。「さて次の日」(62節)。安息日である。「祭司長、パリサイ人たち」というユダヤ人指導者たちは、安息日を聖く保つことに神経質になっていた人たちである。しかし、安息日を無視するかのような行動に出る。ピラトに会いに出かけた。ピラトは異邦人である。異邦人に接触することは普段もできるだけ避けていたはずである。汚れるという理由から。だが彼らは安息日にピラトに接触する。異例である。彼らの要求は墓の番をしてもらうこと。キリストの弟子たちが遺体を盗みに来ないために。弟子たちが遺体を盗んで、キリストが生前語っていた「自分は三日目によみがえる」とことばを民たちに信じ込ませるといけないから、というわけである。ピラトは彼らの要求を呑んで、墓に番兵をつけた。番兵など付けなくとも、弟子たちには盗みに行く勇気など残っていなかったが、しかし、この処置は、キリストの復活の真実性をより確かなものにするという皮肉な結果となる。ユダヤ人たちは番兵を付けて盗めない状況を作った。番兵たちは見張りを怠ったら死刑という身分であったので、命がけで見張った。にもかかわらず、墓が空になったということは、キリストは文字通り復活したということ。もし死体が盗まれたら、兵士は通常は死刑なので、弟子たちが兵士たちの目を盗んで大石を動かして遺体を持って行くことなどできるはずがない。兵士を買収して死体を持っていったのではないかと考える人もいるが、死刑覚悟で買収に応じる兵士などいない。人間がどう動いても、考えても、神のご計画を妨げることはできない。キリストの復活の真実性については、28章で詳しく取り扱おう。

今日のマタイの葬りの場面で強調したいことは、脇役の弟子たちの活躍である。アリマタヤのヨセフと女の弟子たちである。ヨセフは彼でなければできない仕事をした。彼は処刑場の近くに墓を持っていた。処刑場の近くに墓を持っている人は他にもいたかもしれない。そして墓は普通、数体納められる広さがあった。だから空きがあれば納めることはできるだろう。しかし、十字架につけられた呪われた犯罪人の遺体を、普通の遺体と一緒にはしないのが普通。ヨセフははからずも誰も入っていない新しい墓を持っていた。彼はそれを提供した。こうしたことは、ガリラヤ出身の弟子たちにはできないことであった。彼らの所有の墓はガリラヤにしかなかっただろうから。万が一エルサレムに所有していたとしても誰も納められていない新しい墓を所有していたはずはない。そして遺体の下げ渡しを考えてみても、顔が利くという点でもヨセフはベストであった。使徒たちがピラトのところに遺体の下げ渡しなどできるわけはない。ナザレのイエスの一味とみなされているわけだから。また彼らでは、きれいな亜麻布や多量の香料などをすばやく準備できなかったはずである。ヨセフやニコデモだからできた。私たちも、自分だからできる働きがあるということを知って、主に仕えたい。皆さんにしかできない、いや皆さんだからできることがある。それは何なのか、各自、自分に問いかけたい。別の表現をとれば、皆さんは目的をもって選ばれているということである。ヨセフはキリストの葬りのために選ばれていた。皆さんも神のご計画の中で目的をもって選ばれている。神さまは皆さんに何をすることを願っておいでだろうか。キリストのための奉仕ということにおいて、必ず何かある。

マタイは女弟子たちのまなざしも描いていた。キリストは人々の呪いとあざけりの中で死んでいった。けれども彼女たちは十字架上のキリストに愛のまなざしを向け続けていた。そしてキリストが十字架から下ろされ、墓に葬られるまでの様子を見守り、さらに、男弟子たちが去った後も、墓のほうを向いて、そのまなざしをキリストに向け続けた。普段、私たちの心はどこに向けられているのだろうかと問われる。肉の欲、目の欲に絡み取られ、キリストを見失うことはないだろうか。彼女たちはキリストから目を離そうとはせず、自分たちには何ができるだろうか、どうやって差し上げたらいいのだろうかと、仕えることを考えていた。主は彼女たちのこうした姿勢を喜んでくださっていたのではないだろうか。実際、彼女たちは、時間の合間を縫って、キリストにせいいっぱいの奉仕を献げようとし、そして後に見る復活の証人となるのである。

私たちはそれぞれタイプの異なる弟子たちであるが、キリストを想う想いは一つでありたい。そして、それぞれが主に対してできる奉仕をお献げしていきたい。神さまのご計画の中で、皆様は目的をもって選ばれ、それぞれに役割が与えられているのである。