いよいよ、キリストが十字架を負い、十字架にかかる場面に入ることになる。前回は「十字架につけるために連れ出された」(31節後半)で終わり、今日の場面でそれが具体化する。死刑囚は自分の十字架を負って刑場に向かうことになる。十字架の重さは、縦の棒と横の棒を合せると約90キロになる。死刑囚に十字架の横棒だけを負わせたとする説が有力であるが、ヨハネ19章17節では、「イエスはご自分で十字架を負って」と言い切っている。十字架の横棒だけだとすると重さ約30キロだが、夜を徹した裁判で疲労し、鞭打ちで出血した体には、かなり堪えたはずである。通常、四人の兵士が刑場までエスコートした。

キリストが十字架を負って刑場に向かう道すがら、キリストは何度も倒れ、動けなくなった。それを見た兵士は、通りかかったクレネ人シモンに十字架を負わせることになる(32節)。これはキリストに対する温情というよりも、十字架にかかる前に死なれたら困る、早く刑場に運んでもらわないと困る、といったところだろう。

なお、このクレネ人シモンだが、クレネとは現代のリビアに位置する。そしてシモンとはユダヤ人で特に人気の高い名前であった。彼は過越しの祭りがあるということで、巡礼の旅人であったわけである。マルコは彼を「アレキサンデルとルポスとの父」と紹介しているようである(マルコ15章21節)。ということは、シモンの息子たちも初代教会にあって名のあるクリスチャンになったということである。またパウロはローマ人の手紙で「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく」(ローマ16章13節)とあいさつを送っているが、このルポスがシモンの息子であるとすると、シモンの家族はパウロと親交が厚かったということになる。シモンは過越しの祭りに上っていって、予想もしなかったことに巻き込まれたわけである。おそらく、その体が頑強なのが兵士の目に留まり、キリストの十字架を負わされたものと思われる。ローマの法では、兵士を助けて荷物運搬することなどは義務であったので、断れなかった。彼は傷ついてよろめき歩くキリストの後ろ姿を見ながら、刑場まで向かうことになる。彼はキリストが刑場につくまで語られたことばを聞き、そしておそらくは、刑場でキリストが十字架につけられる様も目撃することになったであろう。彼は32節にあるとおり、むりやり背負わされた。けれども後に、自ら進んでキリストについて行く者とされたと思われる。むりやり背負わされたことは恵みだった。皆様もこれまで、むりやりの恵みということがあったのではないだろうか。やりたくないこと、つらいこと、苦しいことを通してキリストと出会った人は少なからずおられる。

到着した場所は、「ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)」(33節)。そこはモーセの律法に基づき、市の郊外にあった(民数15章35節)。「どくろ」はギリシャ語で<クラニオン>。これをラテン語で<カルバリア>と訳したことから「カルバリの丘」という名称が生まれ、広く用いられるようになった。それにしてもなぜ「どくろ」なのかということだが、どくろ、すなわち頭蓋骨が見られる埋葬地であったという説がある。しかし、ユダヤ人は死体をさらすのは許さないため、地形がそれを連想させたのではないかと思われる。

ゴルゴタに着くと、兵士たちは「苦味を混ぜたぶどう酒を飲ませようとした」(34節)とある。混ぜた「苦味」とは「没薬」であることをマルコは明かしている(マルコ15章23節)。没薬は香料の一種で化粧品であったが、死体の防腐剤としても用いられた。東方の博士たちが幼子イエスに献上したのも没薬だった。実は没薬は飲み薬や塗り薬としても用いられた。没薬を混ぜたぶどう酒を釘付けにする前に与えるというのは、釘打ちする時に、死刑囚をなるべく暴れさせないためであった。だから、それは温情で与えるというよりも、死刑囚の手足の釘打ちをしやすくするための処置であった。ところが、「イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった」(34節)とある。どういうことだろうか。キリストは麻酔効果のあるぶどう酒を口にされなかった。それは、十字架の苦しみ痛みを、ごまかしなく、すべてまともに受けようとされたということだろう。キリストはゲッセマネの園で祈られた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」(26章39節)。キリストは全人類の罪が集約された罪の呪いと、そこから来る裁きを、麻酔していない体とはっきりした意識で飲み干す決意をされた。痛みをごまかす杯はいらない。そして御父からの御怒りの苦い杯を逃げの気持ちなく、すべて飲み干そうとされた。私たちの罪のための、肉体、感情、精神の苦痛を、完全に、十分に、はっきりと味わおうとされた。

そしてキリストは十字架につけられる。「こうして、イエスを十字架につけてから」(35節)と、実に簡単な描写である。キリストの時代に、ローマ人は、イスラエルだけでも3万人を十字架刑にしたと言われている。多くは暴動である。ユダヤ人にとっては、キリストの十字架は、神に呪われた者としての刑罰であった。なぜならモーセの律法には、「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」(申命記21章23節)とあるからである。

十字架には三種類あった。十字形のクルクス・インミッサ、T字形のクルクス・コンミッサ、X字形のクルクス・デクッサタ。キリストの十字架は十字形であったことは、37節で、罪状書が「頭の上に」掲げられていたことからもわかる。

十字架に磔にする仕方は二通り考えられる。キリスト時代の文書によると、まず地面に寝せて置かれている十字に組んだ木の上に死刑囚を仰向けに横たわらせる。まず、足を釘付けにする。次に手首を釘付けにする。釘打つ箇所は太い神経が通っている部位なので、激痛が走る。ひざは少し曲げたかっこうにする。その後、十字架を垂直に立て、穴にズドンと落とす。その時、体は地面のほうに引っ張られ、釘で裂かれた傷口に激痛が走る。釘の長さは13~18センチの太い釘であったと思われている。もう一つの方法は、十字架の横木の上に手を広げて寝かされる。まず手首に釘が打たれる。そして、あらかじめ地面に立てられている十字架の縦木に対して、十字の形で吊り上げられる。そして足にも釘が打たれる。どちらの方法にしても、十字架にかけられることによって両腕が伸び、両肩が外れる。詩編22編14節「私の骨々はみな、はずれました」がキリストに成就した。十字架刑によって、ひどい激痛、目まい、けいれん、渇き、外傷性の発熱といったことが続く。頭と胃袋の動脈は腫れる。大量に出血するため、燃えるような渇きが襲う。詩編22編15節「私の力は、土器のようにかわききり、私の舌は、上あごにくっついています」の成就である。

十字架に磔にされたその姿勢自体にも問題がある。胸が圧迫される姿勢となるため、その姿勢では息を吐き出せない。息を吐き出すために体を持ち上げる。その時、釘打たれた三点に体重がかかり、激痛が走る。またうなだれる。その上下運動の際に、荒削りの十字架の板で、鞭でズタズタに切り裂かれた背中をこすることになり、痛みが走る。この繰り返しで疲労困憊していく。空気は肺に流れ込むが、体を起こさなければ息を吐き出すことはできない。しかし、これ上半身の筋力低下とともにうまくできなくなって、やがて肺に二酸化炭素が満ち、血中の酸度が増加し、全身のけいれんと心拍異常が発生する。そして胸がひどく苦しくなり、心嚢に血清がたまり、心臓が圧迫され、心臓が止まる。窒息死する。十字架刑は、ひどい痛み苦しみを長引かせて処刑するということに意義があった。だから残酷な死刑手段であった。

マタイも含めて、新約聖書の著者たちは、なぜかこうした十字架の肉体的苦しみに焦点を当てることはしない。むしろ、十字架刑の性格に焦点を当てている。すなわち、私たち罪人のための十字架であったということ、またそれは旧約聖書で預言されていたということ。

では、続いて見ていこう。「彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分け」(35節)。ここから知れるように、十字架にかけられた犯罪人は着物を着ていない。着物を着せないで裸にしておくというのは、恥を味わわせる手段であった。十字架刑は痛み苦しみを長く味わわせるということとともに、皆の前にさらしものにしてかつ裸にして恥を味わわせるということに意義があった。いろいろな意味において、当時にあって人々が一番恐れ、忌み嫌った死刑手段であった。

それにしても、死刑囚の着物のくじ引きなんてと思われるかもしれないが、当時のローマの法律にあって、犯罪人の所持品を刑にかかわった兵士たちが没収することを認めていた。そして、今、詩編22編18節「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物をくじ引きにします」が成就した。

兵士たちはこの後、「そこにすわって、イエスの見張りをした」(36節)。つまり、確実に死ぬまで、そこで見張りを行った。家族や犯罪人の仲間が救いに来るかもしれない。また、苦しみが長く続くのが忍びないと思う一たちが、その死を早めようとするかもしれない。また何らかの手段で、苦しみを和らげてあげようとするかもしれない。そうした手出しは許されない。

十字架に掲げられた罪状書きは、「これはユダヤ人の王イエスである」(37節)。この罪状書きは、祭司長、長老、パリサイ人といったユダヤ当局は、この罪状書きは望まないわけである。彼らが願った罪状書きは「彼は、ユダヤ人の王と自称した」である(ヨハネ19章21,22節)。しかし、皮肉にも真実が十字架の上に掲げられた。王なるイエスは、神の国の民とならんとする者たちのために、罪の身代わりとしていのちをささげてくださった。

キリストの両脇には強盗が十字架につけられた(38節)。この二人の強盗は、こそ泥、普通の盗っ人ではない。暴行を働いたり、殺人を働いたりする残虐な一団の一味であると思われる。バラバの一味の可能性もある。もし、そうであるならば、キリストがかけられる十字架に、本来ならばバラバがかけられなければならなかったことになる。

さて、キリストを取り巻く人々は、キリストを一様にののしる。まず、「道行く人々」である(39,40節)。おそらくは、この人たちは過越しの祭りに訪れた巡礼のユダヤ人たちである。十数万人が祭りに集まったと思われるので、エルサレムには彼ら全員を収容できる建物はない。よってエルサレムの町の郊外で宿営するか、近くの町々、村々に分散して泊まった。結果として、エルサレム郊外にある刑場沿いの道を、彼らは通ることになった。これらの人々の中には、ユダヤ、ガリラヤの住民も含まれていただろう。一時、キリストの追っかけをやっていた人たちもいたかもしれない。彼らはキリストの教えを聞き、キリストの行った奇跡を見たかもしれない。また彼らのある者は、キリストがエルサレムに入城する時、ホサナと歓喜の叫びを上げたかもしれない。また、キリストの宮きよめを目撃したかもしれない。手の平を返すような態度に出るというのは良くあることである。「神殿を打ちこわして、三日で建てる人よ」という軽蔑のことばは、キリストを死刑に定めるために、ユダヤ教側の裁判で偽証として使われたことばであるが、これが道行く人々にも伝わっているということは、ユダヤ当局が、民衆に偽証を真実と吹き込んで、流布したことがわかる。民衆はこのデマを信じた。

39節の「ののしって」という動詞は、繰り返し、継続して行った文体になっている。キリストは賛美ではなく、ののしりの声を聞き続けた。しかも、この時は過越しの祭りの時期だったので、ゴルゴタの丘には数万人集まっていたことも十分に考えられる。よって、ゴルゴタの丘はののしりの声で満ちていた。実は39,40節は、詩編22編6~8節の成就である。「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。『主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから』」。

次にののしったのは、ユダヤ議会、サンヘドリンのメンバーたちである(41,42節)。彼らがキリスト殺害計画の首謀者、黒幕たちであった。ユダを利用し、裁判制度を利用し、自分たちの手を染めずに、裁判官ピラトの弱みに付け込んで死刑判決を宣告させ、キリストを十字架刑に追い込んだ。

第三のグループは、キリストとともに十字架につけられた強盗たちであった(44節)。

これらのののしりのことばに共通していることがある。それは、「十字架から降りてみろ、自分を救ってみろ、そうしたら信じてやるから」という内容である(40,42,44節)。現代人も同じように言う。「十字架から降りてみろ!奇跡を見せてみろ!自分のことも救えないようなやつはダメだ!」と言うのではないか?その人たちはキリストに何を期待しているのか?それが何であるにしろ、罪からの救いを期待しているのではないことは明らかである。キリストは十字架から降りない。十字架にかかる意志はあっても降りる意志はない。人類の罪に対する神の御怒りの杯を一滴残さず飲み干すために。キリストは捕縛の場面で、「十二軍団よりも多くの御使い」、すなわち七万二千人以上の御使いを配備できると言われたが、その権威を行使するつまりはなかった。身代わりの神の子羊として、十字架でいけにえとなるために。

この世は叫ぶ。「十字架から降りて見ろ!」私たちは、キリストに対して何を言うべきだろうか。先週紹介したバッハのマタイ受難曲は、冒頭から、キリストの十字架の意味を悟らせようとする歌詞になっている。

 

第1曲 コラール

おお神の子羊、罪なくして 十字架にほふられたお方よ。

ご覧なさい! 誰を? あの方をご覧なさい! さながら子羊のよう。

ご覧なさい! 何を? その忍耐を。

あなたはいつも忍耐を貫かれた、辱しめを受けたにもかかわらず。

ご覧なさい! どこを? 私たちの咎を。

あなたはすべての咎を背負ってくださった。そうでなければ、私たちの

望みは絶えたにちがいない。

ご覧なさい、あの方が愛と慈しみから十字架の木を 自ら背負ってゆくさまを。

私たちをあわれんでください、おおイエスよ!

第19曲 コラール

こうした苦しみの原因は何なのですか。 ああ、私の罪があなたを打ったのです。

私が、ああ主イエスよ、招いたことを あなたが耐えておられるのです。

第29曲 コラール

おお人よ、お前の大きな罪を嘆くがよい。

それゆえにキリストは御父のふところを出て、地上へと下ったのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし、時は押し迫り、彼は私たちのためにいけにえとして捧げられ、

私たちの罪の、重い荷を背負われた。丈高い十字架につけられて。

第49曲 アリア(ソプラノ)

愛の御心から救い主は死のうとされます。

罪ひとつお知りになりませぬのに。

永遠の滅びと刑罰が 私のたましいにのしかからぬように、と。

愛の御心から救い主は死のうとされます。罪ひとつお知りになりませぬのに。

 

私たちは告白したい。「あなたは愛のみこころのゆえに、十字架にかかられました。本来ならば、十字架にかかるべきは、この私でした」と。「十字架で流された血潮はわたしの罪のためでした」と。私たちは十字架の前に額ずき、ひれ伏し、感謝をささげ、身もたましいも主におささげしてゆきたい。