今日の箇所は裏切り者ユダの死という内容的には非常に重い場面で、スルーしてしまいたい誘惑がある。だが、神のことばであるので、このような場面も私たちは向き合うことをやめてはならない。私たちは今日の箇所から何を学べるだろうか。

1~2節はイエスさまの裁判の場面だが、四福音書を総合すると、イエスさまは六つの法廷を引きずり回され、裁判を六回受けていることがわかる。最初の三つはユダヤ教の宗教裁判で、第一回は、ヨハネの福音書だけが記す前大祭司アンナスの家での裁判である(18章13~24節)。イエスさまは捕縛後、アンナスの家に連れて来られた。おそらくはイエスさまを告発する容疑をでっち上げるためであった。しかし、それは失敗した。第二回目は、現大祭司カヤパとサンヘドリン議員たちの前での予備的裁判である(マタイ26章57~68節)。この裁判は偽証者まで立て、ヤクザのおどしに近く、もはや裁判とは言えない代物であった。この裁判でイエスさまは沈黙を守るが、カヤパの質問、「あなたは神の子キリストなのか、どうか、その答えを言いなさい」(63節後半)という質問で、ご自分がキリスト、すなわちメシヤであることをお認めになる。それは真実な答えであった。けれども彼らは、イエスは人間にすぎないのに自分を神のメシヤであると主張したと、冒涜罪に当たるとみなしてしまう。当時、自分を主なる神とみなす冒涜罪は死刑であった。第三回目は、27章1~2節で触れられている裁判。これが法的に効力のある公式法廷での裁判。夜中の予備的裁判で証拠はつかめたと、そして夜明け後、公式法廷の裁判を行った。形だけでもこれを行わなければ判決は下せない。これがユダヤ側で最も大切で欠かせない裁判。

六回中、残りの三回はローマ国家権力による裁判。ユダヤ側としては27章1節の裁判で死刑確定ということで終わらせたかったが、2節にあるように、ローマ総督ピラトにイエスさまの身柄を引き渡している。この時代、ユダヤはローマ帝国の支配下にあって独立していない。よって死刑にするには、ローマ側の法的手続きにもゆだねなければならなかった。ローマ国家権力のよる裁判の第一回目は、総督ピラトの前での裁判。第二回目はガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスの前での裁判。第三回目は、もう一度ピラトの前での裁判。そうして十字架刑が確定する。マタイはローマ国家権力側の裁判を描くにあたり、ヘロデの前での裁判は記さずに、ピラトの前での裁判を一つにまとめて27章で記している。

ユダのことが取り上げられているのは、ユダヤでの公式法廷での裁判が終わって、イエスさまの身柄がローマ側に引き渡された時のこと。この時、ユダはイエスさまを売り渡したことを後悔する。彼の犯した罪は律法によれば恐ろしい罪である。「わいろを取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる」(申命記27章25節)。ユダは利発な人物であったから、イエスさまが死刑の判決を言い渡されることくらい予測できていたのではないかと思う。ユダの心の軌道に関しては、多くの人々が様々な意見を述べているが、どれも推測の域を出ない。彼が、なぜイエスさまを裏切ろうとしたのか。イエスさまが逮捕された後、イエスさまがどうなるとイメージしていたのか。彼の心の多くの部分は謎に包まれている。ただヨハネの福音書で事実として言われていることは、ユダは「彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである」(ヨハネ12章6節)と言われている、盗み癖のある金庫番であったこと。そしてイエスさまが弟子たちの足を洗われる洗足の前に、「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」(同13章2節)と言われていること。彼は悪魔にスキを与えてしまっていたが、スキを与えたのは彼自身の心に悪魔を引きつける闇が巣食っていたからである。またイエスさまを売るという裏切り行為は、気まぐれの行為ではなかったということがわかる。イエスさまは洗足の後、ユダを意識し、「あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません」(同13章10節)と言われた。つまり、ユダ以外の弟子たちはイエスさまに足だけでなく心も差し出していたが、ユダは足だけ差し出して心を差し出さなかったということ。その心主イエスにあらず、であった。その後の最後の晩餐の席で、「サタンが彼に入った」(同13章27節)とある。これは、その心主イエスにあらず、の結果であった。こうしてユダは、お金をもらって裏切ってしまう。

前回もお話したように、著者のマタイは、ペテロの裏切りとユダの裏切りを並列して読者の前に提示している。二人の違いは、ペテロは悔い改めたがユダは悔い改めることをせず、後悔で終わってしまったということ(3節)。「後悔する」の原語は、悔い改めるという意味ではなく、悲しむ、後悔するという意味である。このことばが悔い改めの文脈で使用されることはあるが、彼が悔い改めなかったことは、彼の末路からも明らかである。5節後半で彼の自殺に触れられている。普通、悔い改めていたら、このような行為には出ない。精神的病のうちにある場合は、それを「病死」として位置づけるが、ユダの場合、そのような慰め的表現では片づけられない。使徒1章18節では、「ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真っ二つに避け、はらわたが全部飛び出してしまった」と描写されている。これは永遠の滅びに落ちてしまったことを暗示させる表現で、ユダは悔い改めも、そこから来る救いも何もなかったことを表わしている。死んですべてを終わらせようと、人は単純に考える。しかし、そうではない。それは重大な殺人という罪を加えるだけで、死んだ後に行く世界は、永遠の苦しみの世界。マタイは「永遠の刑罰」(25章46節)という表現を取っている。だから命を断つという選択をしてはならない。他の道が必ず残されている。罪を犯した場合は、悔い改めるという選択をするのである。悔い改める者に希望がある。なぜなら、前回学んだように、神の恵みと愛は、私たちの犯す罪よりもはるかに大きいからである。十字架上で悔い改め、イエスさまにパラダイスを約束された強盗がその事実を物語っている(ルカ23章39~43節)。

イエスさまはユダに悔い改めの機会を与えて来た。イエスさまは最後の晩餐の席で、ユダの個人名を挙げないで、裏切ろうとしている者がいると暗示を投げかけ、悔い改める最後のチャンスを与えた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」(マタイ26章21節)。ユダはイエスさまに見抜かれていることを知って、心を変えることもできた。でも、彼はそれをせず、裏切り行為に出る。ペテロとユダの裏切りの違いは、故意の裏切りかどうかという違いが大前提としてある。ペテロはイエスさまにどこまでもついていきたいという願いがあったけれども、臆病風にやられて裏切ってしまう。しかしユダの裏切りは計画的であった。故意の裏切りであった。三年間弟子として愛を注いでいただきながら、恩を仇で返すような卑劣な裏切り計画を練り、ユダヤ当局に引き渡す機会をねらっていた(26章14~16節)。ユダは今日の箇所4節で、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と告白しているが、それはいのちに至る悔い改めにならなかった。ばかな事をした、で終わった。「悔い改め」<メタノイア>は聖書の原語において「方向転換」を意味する。それは神の方へ向き直ること。だから悔い改める者は振り返って、その顔を主なる神に向け、罪の赦しを求める。でもユダの顔は、ただ闇だけを向いていた。太陽に背を向けて闇に伏しているだけと同じ有様だった。その先にあるのは死と滅びだけである。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(第二コリント7章10節)。ユダの悲しみは、闇に顔を向いたままの世の悲しみであった。

ユダは銀貨30枚を返そうとしたけれども、悔い改めの涙の記述はないし、イエスさまに会ってお詫びしようとか、イエスさまとともに十字架について裁きを受けようとかいう記事もない。ユダの悲しみは「世の悲しみ」にすぎなかった。

彼はイエスさまを「罪のない人」と認めているが、彼にとってイエスさまは「罪のない人」、すなわち「死刑には価しない罪のない人」であっても、彼にとって「救い主」ではなかったのである。ペテロはイエスさまを、世に来られる神の子キリストであると信じ、信仰告白をしていた(16章16節)。だがユダにはそれはできない。ユダはイエスさまの価値を低く見積もってしまっていた。それもペテロと大きく違う点である。

この場面のおぞましさは、祭司長、長老たちの態度にもある。彼らはユダへの報酬として銀貨30枚を支払った。銀貨30枚とは奴隷一人の価である。つまり、彼らは、神の子イエス・キリストという存在に対して、侮辱的な値踏みしかしていない。そして彼らが最低だと思わせるのは、ユダを利用しておいて捨てるという態度。「しかし、彼らは、私たちの知ったことか。自分で始末することだ」(4節後半)。この場面でユダは銀貨30枚を彼らに返そうとしたわけだが、祭司長、長老たちは受け取ろうとしない。そんな汚れたお金、受け取れるかと。しかし、そのお金を渡したのは誰だったのか。銀貨30枚は彼らの財源から、したがって究極的には神殿の金庫から出ていた。彼らはそれを払う時は平気でいながら、返そうとされた時は、汚れていると受け取らなかった。自分たちはきれいでいたいと。なんという偽善だろうか。夜中の裁判では偽証者まで立てたわけである(26章59節)。律法で偽証の罪は重く、死罪である(申命記19章16~21節)。今度はユダを手引きする道具として使っておきながら切り捨てた。彼らは、自分の先祖たちが決めた伝承としての細かい規則を守ることに拘泥しながら、人のいのちや正義に関しては無頓着だった。彼らは巧妙な罠を仕掛け、自分たちの手は汚さないで、事を始末しようとした。彼らは対社会的には品格のあるエリートとして振る舞っていたが、仮面をはがせば、闇の暗殺集団と寸分違いがなかった。このような人たちは、現代の社会の上層部にも多くいるだろう。

ではユダに再びスポットを当てよう。ユダは彼らが銀貨を受け取らないと知ると、銀貨を神殿に投げ込んだ(5節前半)。これは単なるやけっぱちな行動ではない。この行動で、銀貨を祭司に押し返したということである。5節の行動を詳細に述べると、祭司のほかに誰も入ってはならない聖所にまで侵入して、そこに銀貨を投げ込んだということ。銀貨は必然的に祭司が拾うことになる。ユダは不法侵入の罪を犯し、聖所を汚すことまでして自分の意志を通した。けれども、さすがに神殿内で死ぬことはできなかった。しかしながら、5節後半の「外に出て行って」した行為は決してほめられることではない。ペテロと比較してみよう。ペテロも裏切りの後、外に出て行った(マタイ26章75節後半)。そこでしたことは首つりではなく、「激しく泣いた」ことである。ペテロは悔い改めの涙を流したのである。「自分は最低の人間だ。主をあやめたのに等しい。私を愛してくれた主を三度も否定してしまった。神よ、わたしをあわれんでください」。彼の涙はただの後悔の涙ではない。愛する方を裏切ったという思いが心を激しく破った。彼は、外に出ていって、涙を流して悔い改めたのである。だがユダは、外へ出て行って、神に心を向けることも、イエスさまに心を向けることもなく、自分に呪いを招く行為に出てしまった。彼はこれまで悔い改める機会を与えられていたにもかかわらず、それを無駄にしてきたために、もはや、この時、悔い改める心を、神さまから恵んでもらいえない状態に達していたのかもしれない。心を変えていただく余地がなくなってしまっていたということ。

著者マタイは6節以降で、祭司長たちが銀貨30枚で陶器師の畑を買い、そこを旅人たちの墓地にしたことを記しているが、マタイはそれに預言の成就を見ている。9節で「エレミヤを通して言われた」とあるが、実際はゼカリヤ11章12,13節の引用である。しかし、エレミヤ19章1~13節等にも陶器師などについて言及がある。当時、複数の預言を組み合わせて引用する場合、有名な預言者の名前を一人挙げるのが慣例だった。だから、これは記述の誤りではない。

今日の箇所から様々なことを教えられるが、特に心を留めたいのがユダの愚かさである。彼は銀貨30枚の報酬で何を失ったのかを考えていただきたい。得たものと言えば、恥であり、呵責であり、罪の呪いである。主を裏切った最低の男というレッテルである。永遠の滅びである。失ったものといえば、キリストという尊い宝、そして自分のいのちである。ユダは弟子たちの間で金入れを預かっていたということで、計算が得意で頭が切れる人物であったと思う。計算ならユダがナンバーワンだと。そして彼は感情の起伏も余り人に見せず、ボロを出さないように立ち回るタイプでもあったかもしれない。だが聖書は頭が良い人イコール賢い人とはみなさない。ユダは頭が切れる人物であったが、キリストを見る目が間違っていた。頭は良いが人生の根本的計算ができない。そのような人物は現代でも五万といるのではないだろうか。自分がしていることが愚かだと気づいていない。自分がどこから来てどこへ行こうとしているのかわかっていない。キリストの価値を見誤って生きている。自分の知恵と力を誇り、自分を神のようにみなして生きている人たちもいる。数字の計算は得意で、仕事も良くこなすかもしれない。しかし陰で何を行っているのか。彼らの個人的終末はみじめなものである。イエスさまはあらかじめ警告しておられた。「人はたとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」(マタイ16章26節)。ほんとうの人生の計算ができる人になろう。神さまを恐れなければいけない。キリストに最大の価値を見いださなければならない。自分の人生を利得のためではなく、キリストにささげなければならない。日々、悔い改めと信仰を尊び、キリストに人生を投資し、キリストをあがめ、キリストに従う人こそ幸いである。