今日の箇所は、トルストイの「靴屋のマルチン」等の短編小説で良く知られている。愛の実践を説く箇所として親しまれている。けれども、良く見ると、さばきの描写である。今日の箇所は24章から始まった終末時代の教えの完結編である。さばきの対象は32節にあるように、「すべての国々の民が」と、全世界の人々とされている。また今日の箇所は、24章45節から始まった主の再臨に関するたとえの、最後のたとえである。一般に「羊とやぎのたとえ」として知られている。終わりの時代、キリストは再臨され、さばきの座に着く。ユダヤ人はさばきの座に着くのは神のみと考えていたが、キリストは神として、そのさばきの座に着かれる。今日の箇所はさばきの観点から、しっかり見ていかなければならない。ただの道徳の書のように見てしまう過ちを犯してはならない。

キリストはやがて栄光を帯びて、尊厳と輝きを帯びて来臨される(31節)。それは二千年前の来臨の時のような卑しい貧しい赤子の姿ではない。十字架につけてしまいたくなるような見栄えのしない人の姿ではない。メシヤ本来の威光に満ちた輝ける姿で、王の王、主の主として来られる。そして栄光のさばきの座に着き、全世界の人はキリストの前に立ち、これまでの人生の申し開きをし、審判を受けることになる。そしてすべての国々の民は二分される。それを主は「羊とやぎのたとえ」で語る(32,33節)。羊飼いが羊と山羊を分けるストーリーは1世紀のパレスチナ人にとってなじみ深いものであった。羊と山羊を比べれば、羊のほうがより価値があるとみなされていた。羊と山羊は放牧の時は一緒だった。一日の終わりに、羊飼いは二つを分けた。主は「羊を自分の右に」と言っているが、右側は特別な恩恵を受ける側であるが、左側はそうではない。右側は栄えある場所。そこは神に祝福された人たちに備えられた場所として、主は描いておられる(34節)。それに対して左側はのろわれた場所である(41節)。右側の人は「御国」を受け継ぐ(34節)。左側の人は「永遠の火」に入る(41節)。別の表現では46節から、右側の人は「永遠のいのち」に入る。左側の人は「永遠の刑罰」に入る。

さて、神に祝福され、御国を受け継ぐ人はどういう人なのか。永遠のいのちに入る人はどういう人なのか。イエスさまは羊と山羊を見分けるために6種類の行動に言及している(35~36節)。①飢えている人に食べ物を与える②渇いている者に飲み物を与える③旅人に宿を貸す~1世紀、パレスチナではホテルのような施設は少なかった。そこで個人の家に泊めてもらうことが多かった。④裸の人に着る物を与える~裸は1世紀のパレスチナでは貧しさの象徴であった。つまり裸は、着るものを買うお金がないことを意味していた。⑤病人を見舞う~病人を見舞うことへの奨励は、初期キリスト教文書でも、ユダヤ教文書でもよく登場する。2世紀の聖徒ポリュカルポスは「教会の長老は病人を見舞うために召されている」と言った。⑥牢にいる囚人を訪ねる~当時の牢は汚く暗い場所。囚人を普通の人のように扱うという考えは当時はなく、囚人は疫病のようにみなされ扱われたという。パウロたちのように犯罪に手を染めていなくとも、信仰のゆえに投獄されてしまう者たちも多かった。

6つの事例でキリストが取り上げられた人々は、貧しい人、他所から来て困っている人、病人、囚人であり、疎外されがちな、しかも必要を覚えている人々である(難民も入るだろう)。主は「それらの人々にしたのはわたしにしたのだ」と言われる。見落としてならないことは、これらの人々が40節で、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」と呼ばれていることである。「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」にどう向き合うかによって、右と左に分けられるということである。そこで問題は、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」という表現は、誰のことが意識されているのかということになってくる。「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」とは明らかに「キリストの弟子たち」を指す。わたしの兄弟たちの「兄弟」とは、マタイ12章48~50節において、キリストの弟子たちであることがわかる。またキリストの弟子たちは、マタイ10章42節において、「小さい者たち」と呼ばれている。主は「最も小さい」と形容しているので、小さい者たちの中でも困窮している人たちを指すのではないだろうか。

「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」とは、困窮しているすべての人と採る解釈もある。これは、クリスチャン、ノンクリスチャンの区別はないわけである。ワイドな解釈である。だが、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」の解釈で落としてはならない対象は、やはりキリストの弟子たちである。キリストの弟子たちをどう扱うかがリトマス試験紙になる。そこで羊か山羊かを判断できるというわけである。もし困っている信仰の同胞に目をくれないようなら、その人は「主よ。主よ。」と言っていても、羊の皮をかぶった山羊にすぎないと判明する。ヨハネの手紙は偽キリスト者を見分けるための書であるが、こうしたことを繰り返し説いている。「そのことによって神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。善を行わない者はだれでも神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです」(第一ヨハネ3章10節)。信仰の兄弟を愛するか愛さないかが試金石となる。この時代、すでに多くの反キリストが教会に入りこんできていた。羊の皮をかぶった山羊たちである。見たところは羊のようであっても、本質は山羊なのだから羊を愛せない。そこで偽りの霊を見分けることができる。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けているのです」(第一ヨハネ4章20~21節)。「信仰の兄弟を憎む者は山羊。もし自分は羊であるというなら、兄弟愛を実践せよ。主ご自身が命じておられる」というわけである。初代教会時代、キリストの命令は実践された。2世紀の教会のはやり文句に次のようなものがある。「あなたの兄弟たちの中に、あなたは主ご自身を見たのだ」。もちろん、この文句は、今日のマタイの説話から来ている。キリスト教嫌いで有名であったギリシャ哲学家のルキアノスという人物は言った。「あの宗教の人々が、欠乏の中で助け合う熱心のほどは信じられないくらいだ。彼らは何一つ惜しまない。彼らの最初の法の制定者(すなわちキリスト)は、彼らの頭の中に、彼らがみな兄弟であるということを刻み込んだのだ」。初代教会時代、古代教会時代のキリスト者は、キリストの命令を実践した。

今日の説話は、良い行いによる救いを説いているなどと受取り違いしないようにしよう。救いはあくまで、キリストの十字架の贖いのみわざを信じる信仰による。救いは100パーセント主の恵みによる。キリストが私たちを救うのであって、私たちの功績が私たちを救うのではない。救いは良い行いによるのではない。このたとえにおいて主から賞賛されている人々は、なぜか主に賞賛されて驚いている。「わたしはそんなに褒められるようなことをした記憶はないのに」と。明らかに彼らは、報いを期待して、地獄のさばきからのがれようとして良い行いをしたわけではない。天国に入るために功績を積み上げようと思って良い行いをしたわけではない。彼らは下心がある功績主義者たちではない。行いの功績によって救いを得ようとしてのではない。キリストを信じる者として、キリストにあるふさわしいあり方を自然に現しただけである。ただ純粋な動機でキリストの命令に従い、兄弟愛を示したのである。

今日の箇所から言えることは、キリストを信じているということは何によって表わされるのかということである。キリストを信じているということは、真理のみことばに従うということによって、特に、信仰の兄弟を愛するということで表わされる。みことばに従うというのは信仰告白に等しい。いや、信仰告白そのものなのである。「主よ。主よ。」と言っても、兄弟愛を実践できないのならば、その人の信仰告白には実体がない。すなわち、「これらのわたしの兄弟たち」を憎んだり、何もできないというのなら、その人の信仰告白に実体がない。キリストを否定していることと同じということになる。キリストを愛しているかどうかは、兄弟愛が試金石となるのである。

以上のことを汲んでいただいた上で、今日の教えを隣人にも適用することを考えよう。キリストはクリスチャン仲間だけに親切にすればよい、などとは教えておらず、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と、それを身をもって教えられた。今日の箇所は、その参考になるだろう。マザー・テレサのミニストリーは、マタイ25章31~46節が土台になっていると言われている。彼女は生前こう語った。「私たちは隣人において彼(すなわちキリスト)に仕えます。貧しい人のうちに彼を見ます。病人において彼を看護します。私たちは悩んでいる兄弟姉妹たちにおいて彼を慰めます」。

アッシジのフランシスコの次の逸話も有名である。彼は上流階級の財産家の家に生まれ、お金を湯水のように使う男であったが、空しさは消えず、求道していた。ある日、彼が馬に乗っていると、醜い、ぞっとするような姿のハンセン病患者に出会った。フランシスコは何かに心が動かされて馬を降り、廃人のような男を抱きしめた。すると、彼の腕の中で、ハンセン病患者の顔はキリストの顔に変わっていたと言われる。

ツールのマルチンという人物の逸話もある。彼はローマ兵士でクリスチャンであった。ある寒い日に彼が町へ入ると、乞食が彼を呼びとめて施しを求めた。彼は金をもっていなかったが、乞食が真っ青な顔をして寒さに震えているのを見て、自分のすり切れた軍服の上着をとり、二つに切って、その半分を乞食に与えた。その晩、彼は夢を見た。場所は天国で、天使の間で、イエスさまがローマ兵士の上着の半分を着ておられた。一人の天使が、「主よ。どうしてそんな古い上着を着ておられるのですか。誰があなたにそれをあげたのですか」と尋ねると、イエスさまは静かに答えられた。「わたしのしもべマルチンがくれた」。キリストは今も、栄光を隠した姿、輝きを伏せた姿、目立たない姿、損なわれた姿で私たちの前に現れるのかもしれない。キリストは隠されているキリストとして世におられる。

私たちは、目の前にいるお方がはっきりとキリストであるとわかれば、それは精魂傾けて仕えるだろう。けれども、そんな現れ方はされない。キリストは、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」の背後に隠れておられる。41~45節を見れば、左に分けられてしまった者たちは、最も小さい者たちにすることはキリストにすることであると知らなかった。しかしながら、よく観察すると、37~39節を見れば、右に分けられた者たちも、この真理を知らなかった。キリストに仕えたなんて知らなかった。知らなくとも、何も問題はなかった。彼らはただ純粋に、あわれみの心で仕えただけである。キリストのみことばを実行しただけである。そして、それを自分の手柄だとも何とも思っていない。右の手のしていることを左の手に知られないようにして仕えた(マタイ6章3節)。彼らは主の羊たちであった。彼らは御国を受け継ぐのにふさわしい、永遠のいのちに入るのにふさわしい者たちだった。私たちも地上にて主のみこころを行い、兄弟愛、隣人愛を通して主に仕え、主の再臨の時、主の羊として御前に出たいと思う。