今日のたとえは「タラントのたとえ」として知られている。前回同様、主の再臨が意識されているたとえである。前回は、心の目を覚まして、ひたすらに花婿イエスにのみ目を注ぎ、来臨を待ち望むことを学んだ。今朝、このたとえから四つのことを見たい。

第一は、主のしもべにはタラントが預けられており、それを活用する責任があるということ。このたとえは、ある主人としもべたちの物語である(14節)。主人は旅に際して、しもべに財産を預けるが、それは無くさないためというよりも、増やしてもらうためである。しもべたちには、勤勉で良く働くしもべたちと、そうでないしもべたちがいた。「しもべ」と訳されているギリシャ語<ドゥーロス>は「奴隷」である。ローマ帝国下の奴隷は賃金を得ることができたし、ボーナスや土地、建物といった財産も得ることができた。しもべは、そのがんばりに見合った奨励給がもらえる。「主人」のギリシャ語<キュリロス>は、主キリストの「主」と同じことばである。主人は長旅に出たようだが、やがて戻る。つまり、この主人とは、天に昇り、やがて戻って来られる再臨のキリストのことである。主人の帰りを待つしもべとは、私たちキリスト者のことになる。

当時、主人の長旅というとき、数ヶ月のこともあったし、1年それ以上のこともあった。その際、主人は、しもべたちに自分の財産の管理を託す。しかし、財産というものは、そう簡単に誰にでも託せるものではないから、このしもべたちは他の奴隷たちを監督する上級の奴隷であることがわかる。彼らは管理人として、主人の財産の運用にあたった。その責任は重い。このたとえに、しもべとしての責任ということを読み取らなければならない。すなわち、私たちキリスト者は神さまに対して責任を負っているということである。自分の人生、自分の持っているものを、自分の好きなように、では困るわけである。私たちは、そのように召されてはいない。

しもべたちはタラントを預けられた(15節)。一タラントは6000デナリに相当する(15節脚注)。一デナリが普通の労務者の一日分の賃金。労務者が一年で300日働くと過程すると、一タラントで20年分の賃金である。一タラントでも相当の額であることがわかる。二タラントで40年分の賃金である。五タラントでは100年分の賃金となる。このタラントが何を意味しているのかということだが、これを私たちに適用するとき、金銭に限ることはない。このギリシャ語の<タラント>ということばから、英語の<タレント>ということばが生まれたわけであるが、その意味は「能力、才能」である。だからタラントには、生まれながら持っている様々な才能が入るとみなしていい。また、御霊の賜物も入れていいだろう。御霊の賜物は、厳密には生まれながらのもとは区別される。後天的なものである。ある方々はタラントをもっと広い意味で使い、神さまから託されている様々なものを一括してタラントと呼ぶ。そう受け止めたほうがいいかもしれない。タラントは誰でも持っている。例外はない。託されたタラントは活用する責任がある。責任があるといっても、神さまは私たちに負いきれない責任を負わせることはしない。その責任はおのおのに妥当なものである。それは、「おのおのその能力に応じて」ということばが暗示している。神さまは、あなたにはこれくらいのことはできるね、と把握しておられる。

たとえに登場するのは三人のしもべである。五タラント預かったしもべ、二タラント預かったしもべ、一タラント預かったしもべ。それぞれ預かったタラントは違うが、二種類のしもべに分けられる(16~18節)。最初のしもべはリスクを冒して、預けられたものを二倍に増やした。二番目のしもべも二倍に増やした。投資して二倍にするというのは、当時にあって妥当な増やしかたであったよう。三番目のしもべはどうか。彼はリスクを冒すことを嫌った。保身に走った。この時代において良く行われていた行為に出た。地面の下にお金を埋めた。先の二人のようにそれを元手にして増やそうという気力は持ち合わせていなかった。体の具合でも悪かったのだろうか。そういうことではなく、彼は、ただ、自分の安全だけを図ってしまったということ。しもべとしての責任放棄である。だが、先の二人はそうではなかった。

第二は、主はご自分に忠実なしもべに豊かな報いを与えるということ。主人が長旅から帰ってきた(19節)。キリストの再臨が意識されている。「よほどたってから」ということばが、主人の留守の期間が長かったことを物語っている。主の再臨は思ったより遅くなることが暗示されているのかもしれない。現代はまだ、主人帰宅前の時代。そして私たちはタラントを託され、それを活用していくしもべの身分である。

主人に属するしもべたちは、帰宅した主人に対して、商売の報告をする。最初の二人は、預けられたものを二倍にしたことを喜んで報告する(20~23節)。主人は二人を賞賛している。そのセリフは同じである。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」。わずかなものに忠実であったと、そういう価値観が口にされている。ここから、地上で託されるものはわずかであると言えよう。それに対して、天の御国で託されるものはたくさんである。「私はあなたにたくさんのものを任せよう」。これは、天の御国においていただく褒賞と言ってよい。それは地上でのわずかさと比較にならないもの。「主人の喜びをともに喜んでくれ」とは、主人の祝宴に与ることが暗示されている。天の御国の祝宴と言ってよい。

二人のしもべは、忍耐し、涙もあったかもしれないが、忠実に勤勉に働いた。なぜだろうか。褒賞を期待してだろうか。というよりも、主人を愛していたからである。この辺りが、自分の身の安全のことしか頭にない三番目のしもべとは違う。彼らは主人の心を正しく理解していたのである。それはこの後に見る三番目のしもべの描写で、浮彫にされる。

第三は、主を侮辱する不忠実なしもべは裁きに遭うということ。三番目のしもべの報告を観察しよう(24,25節)。彼は自分の責任を全く果たさなかった。「さあ、どうぞ、これがあなたの物です」と、そっくり返した。なぜこうなったのか。彼の主人に対する見方は先の二人とは全く違っていた。三番目のしもべは、主人について、「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました」と評している。彼は、主人は厳しくていじわるだと言っている。しかも「わかっていました」なんて勝手な思い込みである。彼は、「主人は働かせるだけ働かせておいて、評価は厳しくする、気難しい陰険なおやじ。元手を失って罰を受けるくらいなら、そっくりお返ししますよ」とやってしまった。「ひどい方」は「厳しい方」と訳せる。彼は主人の厳しさを恐れて、主人の慈しみということに全く気づかなかった。主人の厳しさ、厳格さに心捕らわれ、働く気を失ってしまった。先の二人は主人に慈しみを見ていたが、三番目のしもべは、全くの別人を見ている観があった。

この三番目のしもべは、直接的にはパリサイ人や律法学者が意識されているかもしれない。彼らの神イメージはゆがんでいた。神を冷徹で厳しいお方としてしか見ていなかった節がある。彼らの態度は、彼らの神イメージを反映している。彼らは細かいことにこだわり、人に厳しく、すぐに裁き、あわれみがない。冷たい。いずれにしろ、私たちは正しい神イメージをもたなければならない。私たちは神の働きに携わろうとしても、神に対して良くないイメージを抱いていると、その働きが苦痛になってくる。そして「神の仕事は重荷が大きすぎる。とうてい耐えきれない。過重な仕事だ。つらいだけでやりたくない」となる。弟子のピリポがイエスさまに対して、「主よ。私たちに父(すなわち神)を見せてください。そうすれば満足します」と言った時に、「わたしを見た者は、父を見たのです」と答えられた(ヨハネ14章8,9節)。イエスさまは神を現す神。イエスさまはどのようなお方であっただろうか。イエスさまは、貧しい民衆に対して、そして罪人、取税人、障害者、遊女といった世間から蔑視されていた者たちに対して、どれほどの愛情を示されたのか、私たちは知っている。また弟子たちの足を洗うという奴隷の奉仕までされた。そしてついには、十字架の上で、罪のためのなだめの供え物となって、私たちのためにご自分のいのちを犠牲にされた。その時に、一緒に十字架につけられた強盗の罪までも赦された。イエスさまは神の啓示あり、神そのものである。慈しみ深く、恵みとあわれみに富むお方である。愛そのものであるお方である。イエスさまは神の義、聖さを現されただけではない。神の属性のすべてを現された。特に、人々が受け取り損なっていた神の愛、恵み、慈しみというものを完全に現された。イエスさまを知る者は神を知るのである。そのような意味でも、前回紹介した十字架の聖ヨハネのことばを思い起こしていただきたい。「あなたはその目をキリストのうちにのみ注げ。あなたがしっかりと見つめれば、キリストのうちにあなたの慕い求めるすべてのもの、それ以上のものを見い出すであろう。彼の上にのみ注げ。そうすれば、彼のうちに隠された驚くべきものを見い出すであろう」。

主人は三番目のしもべに対して、彼の良くないイメージをリピートしている(26節)。これは主人をいじわるく見てのイメージで、侮辱的である。主人はわずかなものに忠実なだけでも、それに見合わない、豊かなものを与える、慈しみ深く、恵み豊かな方というイメージを持てなかったことは、まことに残念である。主人は三番目のしもべの悪いイメージをリピートした後、せめて、こうして欲しかったという提言をしている(27節)。「銀行に預けておくべきだった」というのは、リスクを冒さないまでも、わたしのために投資するという生き方を少しでも見せてほしかった、というメッセージが込められている。とにかく、主人のために全く何もやる気がないというのは問題である。自分のことしか頭にないミーイズムは祝福を失う。たとえの主人はなまけ者のしもべの態度にうんざりして、そのタラントを彼から取りあげ、主人のためにリスクを冒して、タラントを最大限に活用しようとしたしもべに与えてしまっている(28節)。

イエスさまはたとえ話のまとめとして、29,30節を語る。忠実さの違いによって報酬のある無しが決まる。そして主人のために何もしなかったなまけ者は、天の御国の外に放り出されてしまう。ここでは、主キリストが再臨し、裁きの座に着かれた時、真のしもべと偽りのしもべが明らかにされることが言われている。

私は今朝、ただ、自分のタラントに目覚めましょう、忠実なしもべとなりましょう、主の仕事をがんばりましょう、そうしたがんばりに力点を置くつもりはない。「動機」に力点を置きたいと思う。三番目のしもべは、主人の出身地や、主人の年齢や、資産がどれくらいあるかとか、ありきたりの知識はもっていたかもしれないが、主人の心のことは全然分かっていなかった。放蕩息子が父親の心を知っていなかったことと比較できるかもしれない。三番目のしもべは主人の心を知らなかったので、主人のためにすることは、うんざりするゴミの山に向かうようなものであった。

第四に、主の心を知って、喜んで主に仕えるということ。なぜ最初の二人は主人のためにリスクを冒すことができたのだろうか。なぜリスクがあっても、あえてチャレンジしようとしたのだろうか。なぜ安全地帯に踏みとどまらず、冒険に出ようとしたのはなぜか。なぜ汗水流して、しもべとしての責任を忠実に果たそうとしたのだろうか。それは自分たちを愛してくれている主人を喜ばせるためである。最初の二人は主人の心を良く知っていた。主人の愛を、その慈しみ、恵み、あわれみを。主人は自分たちのような罪人に対して、ちりにも等しい者に対して、もったいないほどに恵み深いお方であることを知っていた。この主人に仕えることは私の喜び!そこには打算を越えたものがあったと思う。この主人のために犠牲を払おうと。幾ら犠牲を払っても惜しくないと。ペテロをはじめとするキリストの弟子たちは、この中に入るだろう。またナルドの香油を主の頭に注いだマリヤや、主のためにパーティを開いたザアカイや、その他のキリストの愛、恵み、慈しみに感動した者たちがこの中に入るだろう。

主の心を良く知るには、やはり十字架のもとに立つことであろう。私たちは自分の心の風景がいつも良いとは限らない。だが、そこに十字架を立てるとき、私たちはむさぼりや、焦燥や、自己憐憫にばかり捕らわれていてはならないと知る。たとい心が干上がり、自分の力が尽き果てたように感じても、十字架のもとから湧き出る泉を汲んで、それを飲んで励まされ、主のためにやろう、という思いが新たにされるのである。その時、私たちは、忠実さに生きる思いが新たにされるのである。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5章8節)。この歴史的愛の事実が私たちの心に迫り、聖霊によって神の愛が私たちに注がれ、今日も明日も主のために生きようと力づけられるのである。

主キリストはすばらしい私たちの主人である。十字架の上で、ちりに等しい私たちのために、いのちまで捨ててくださった。私たちが本来受けるべき罪の呪いを引き受けてくださり、罪がもたらす滅びより救い出してくださった。この主の愛に対して、何をやっても応えきることはできないが、主の愛に少しでも応えていきたいと思う。主の愛で心を満たして、パウロの言うように、「生きることはキリスト」(ピリピ1章21節)という人生を選択していきたいと思う。

最後に、E.H.ピーターソンのことばを紹介して終わる。「従順さとは、恐れではなく愛に根ざすものです。強いられて従順さが増すわけではなく、愛されることによって心から従順になるのです。キリスト者にとって神の戒めを守るというのは、浮かぬ顔で規則に従うようなことではなく、喜びにあふれた愛の実践なのです。」