24章全体がキリストによる世の終わりの預言の講話。今日は、その三回目である。35節には「この天地は滅び去ります」というショッキングな表現もあるが、世の終わりとは、まさしくそのようなことを指すわけである。

今日の箇所でキリストは、まず時のしるしを見分けるように告げている(32~34節)。キリストは、ユダヤでは見慣れたいちじくで説明を始める(32節)。ユダヤでは春にいちじくは実をつけ、それから葉が出る。葉が出ると夏が近いことがわかる。日本は比較的四季がはっきりしているので、樹木などで季節を知る習慣が同じように根づいている。ユダヤでは、いちじくの葉が出れば夏は近い、というわけである。では何を見たら、世の終わりは近い、と判断するのか。33節でそれは「これらのことをすべて見たら」と言われている。「これらのこと」とは、キリストが24章に入って言われたすべてのことである。すでに学んだわけだが、「にせキリストの出現」「戦争と戦争のうわさ」「ききん」「地震」「迫害」「教会の背教と堕落」「全世界への福音宣教」ということが、世の終わりのしるしとして14節まで言われていた。「全世界への福音宣教」以外はマイナス要素で、不安を煽るものである。これから益々不安が増幅する時代になることは確かである。不安な時代、人々が求めるのはカリスマ的存在。安易にそれらの人々を信じてしまうことが起きる。そこでキリストは、人を惑わす者たちの存在に注意を喚起する(24節)。そしてキリストは「天の万象は揺り動かされます」という天変地異も強調する(29節)。これらのことをすべて見たら、世の終わりは近い、というわけである。読んで分かるように、キリストは世の終わりと、ご自身が再び地上に来られること(すなわち再臨)とをオーバーラップして語っておられる。この天地は滅び去ってしまう。しかし、その前に、キリストはご自身を信じる者を救いに来られる(30,31節)。「人の子」というのは「人間」という平たい意味ではなく、ユダヤ人なじみの用語で、終末時代に出現するメシヤの別称。そのお方は人の姿を取って現れるけれども、人ではない。御使いでもない。神の救い主、王の王、主の主。このお方が来臨される時、来られた~、と慌てても手遅れ。だから世の終わりの前兆、しるしというものを見分けて、心備えをして、キリストの再臨を待つということが大切になってくる(33,34節)。

ある人たちは、何年に世の終わりが来るとか、何年にキリストが再臨されるとかわかっていればいいなということで、勝手に計算してその年を言い合てるということが過去繰り返してされてきた。幻を見た、啓示を受けたといってその年を告げるにせ預言者たちもいた。今までのところ、すべて外れている。こうしたことは無益である。神のみこころは、私たちが世の終わりのしるしを見分け、襟を正して、適度な緊張感をもって、いつ再臨されてもいいように、待ち望んで行くことである。だから、神は、あえて年数を告げようとしない(36節)。ここで天の御使いも子なるキリストも知らないと言っているのだから、キリストの啓示があったとか、御使いの啓示があったとか言って、何年に世の終わりが来ると言っている輩は、悪霊にだまされているか、ペテン師のどちらか。また聖書を読んで、何年にキリストが再臨すると計算している人たちは、聖書を占いの書並みの扱いしかしない不敬な輩である。

キリストは42節で「目をさましていなさい」と命じられ、44節では「用心していなさい」と命じられている。これを実行することが何よりも大切なのである(42,44節)。キリストがこれらの信仰姿勢を教えるために引き合いに出したのが、ノアの洪水の物語である(37~44節)。

過去、世界規模で洪水があったことは科学者たちも認知している。洪水伝説も全世界にある。洪水の時期は聖書から紀元前二千数百年と推定される。ノアの洪水の記事は創世記6~8章に記されている。そこを見れば、地殻の変動によって大地震が起き、それに伴う大津波、地盤沈下、地割れ、地下からの水の噴出があったことが想像される。また大雨が長期間にわたって降ったことが記録されている。洪水は続き、水は150日の間、地上に増え続けたと言われている。おもしろいことに、世界の屋根と言われるヒマラヤ山脈から、貝殻や海生生物の化石が発見されているが、古代、世界大規模の地殻大変動があったことは事実である。

ノアは洪水が起きる前に神からの警告を受け、箱舟を建造した。「すべての肉なる者の終わりが、わたしの前に来ている。地は彼らのゆえに暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい」。そのサイズも神によって指定されている。それはもっとも転覆しづらい構造で、長さ、幅、高さの外寸は、現代の石油タンカーと同じ比率だと言われている。容積は4トントラック1366台分である。こんな大きな舟なのに、最終的に箱舟に入った人間は、ノアの家族8人だけ、後は動物たちである。

なぜ他の人間たちは箱舟に入らなかったのか。ノアに警告があってから洪水までは120年の猶予期間があった。入るための準備期間はたっぷりあった。また箱舟は誰にも見られないように密かに造られていたというわけではない。しかも全長はジャンボジェット機の二倍の116メートル。高さは三、四階建ての建物に相当する16メートル。目だたないわけはない。広範囲でうわさになっただろう。またペテロの手紙第一の3章を読むと、箱舟に乗るようにと、人々に対して救いが宣べ伝えられたことが記されている。でも、人々は箱舟に入ろうとしなかった。どうしてか。「神のさばきが来る?大洪水で世界が滅びる?ばかばかしい、ありえない」であろう。防災心理学の専門家、山村氏の著書を読んで教えられたことがある。彼が言うには、たとえば地震に関しては、可能性があると言われても、二人に一人が「地震は来ない」と楽観的に考えてしまうと言う。過去、災害があったとしても、災害の記憶というものは風化し、その予測は「まだ大丈夫だろう」に流れると言う。ましてや経験していない大災害に対しては、「来ないだろう」と楽観的に判断してしまうと言う。実際、災害が訪れたときは、「まさか」の心理が働いて、なかなか逃げ出さないと言う。さらに、周囲の人々を気にして動かないという現象が起きると言う。電車内で火事が発生したときの事例が紹介されていた。車内に煙が立ち込めて来る。なのに、椅子から立ち上がろうとしない。「どうせ大丈夫だ」という心理とともに、「自分だけ慌てたくない」「隣の人に合わせよう」「隣の人も動かないからいいだろう」となって、動かないのだと言う。このような心理がノアの時代の人々にも働いたのではないだろうか。「何も起こりはしない。周りの人たちと違う行動を取りたくもない」。こうして、ごく少数派のノアたちの警告に耳を傾ける者たちなんていなかった。それどころかノアたちの言うことをばかにしただろう。ノアたちは完全に浮いた存在ではなかっただろうか。だが、気づいた時は手遅れだった。

人々が箱舟に乗らなかった理由は、「まさか」とか「どうせ大丈夫だ」とか「自分だけとっぴな行動をとりたくない」とか、そういった心理が働いただけではなかった(38節)。これは、どういうことかというと、現世的世俗的関心にだけ心を奪われている姿である。明日おぼれ死ぬというのに、高価な骨董品のつぼを何時間も磨いてニンマリしているとしたら哀れ。それは自分の救いの何の足しにもならない。明日おぼれ死ぬというのに、海水浴に出かけることしか頭にないなら哀れ。明日おぼれ死ぬというのに、ブティック巡りをして、明日のパーティに着て行く服選びに無我夢中というのなら哀れ。スキューバーダイビング用のスーツを買ったほうがまだまし。実際は、ノアたちのしていることこそ、愚かに思われただろう。海もないようなところで、どでかい舟を造っていたわけだから。ノアたちも、もちろん、飲んだり、食べたり、ラブロマンスを経験しながら生きてきたわけだが、それだけが人生ではないと認識していたわけである。神にある人生、幸福はそこにあるとわかっていた。神の命令に従うことこそ幸いとわかっていた。

防災心理学専門家の山村氏は「人はみな自分だけは死なないと思っている」と言った。いつの時代でもそうだと思う。そうして現世的世俗的関心だけに没頭してしまう。飲むこと、食べること、楽しむことやお金、そうしたことだけに関心が向いてしまい、世の終わりが近づいた時代に生きているという現実を直視しようとしない。神の警告には耳を貸そうとしない。だが確実に世の終わりは来る。たとえ全世界に共通する世の終わりを経験しなくとも、個人の終末が来る。すなわち、誰しも個人としての死を経験することになる。それは肉体の死のみならずたましいの死も含まれる。すなわち永遠の死である。だから聖書は、人間誰しもが罪の赦しと永遠のいのちが必要であると教えている。キリストはそのために救いの箱舟となって十字架についてくださった。十字架はわたしの罪のため、十字架に救いがある、というのは、現代人にとっては愚かにしか聞こえないだろう。それは箱舟よりも価値のないものに見えるだろう。だが、救いはここにある。

40,41節をご覧ください。畑や臼挽きの共同作業の描写である。「ひとりは取られ」とあるが、これは、「天国に取られる、天国に救い入れられる」ということである。ここから明らかなのは、二人一組で畑を耕し、二人一組で臼を挽くような地上的絆で、どれほど強く結ばれていたとしても、ともに天国に行くことはできないということである。救われる者、そうでない者に分かれてしまう。3.11の地震以来、「絆」ということばが良く使われるようになった。たといロープで二人の手をしっかりと結び、私たちは離れない、とやっていても、ひとりひとりがキリストとしっかり結び合わされていないのなら、役に立たない。だからひとりひとりがキリストとしっかり結び合わされているかどうかの信仰が問われる。それは今日の箇所では、主を待ち望む信仰ということで問われる。

最後に、二つのたとえから、キリストの来臨を待ち望む姿勢について見よう。最初は43~44節の「盗人のたとえ」である。一般の泥棒は怪盗ルパンとは違って、何年何月何時何分に参上する、と予告したりしない。世の終わりのさばきの日、キリスト再臨の日も予告はない。だから、いつ来るか、今来るかと、見張り番のような意識でいなければならない。

もう一つは45~51節の「悪いしもべのたとえ」である。主人が留守の間、悪いしもべも一応、主人の帰りを待ってはいる。しかし待ち方が悪い。48節にあるように、「主人はまだまだ帰るまい」と思い込んでいる。緊張感なく、のんきに構えている。だから掃除はさぼり、家の管理や畑の管理は適当にし、仲間たちとの飲み食いにうつつを抜かし、まるで、主人は帰って来ないと決め込んだような放埓ぶりである。しかし、主人は必ず帰って来る。その時、後悔しても手遅れである。当時、こういうしもべは牢獄行きか死刑だった。このしもべの認識は、主人の帰りに関して、「まだ時間がかかる」という認識。けれども、聖書はそれと反対のことを言っている。「世はふけて、昼が近づきました」(ローマ13章12節)「時は縮まっています」(第一コリント7章29節)「主は近いのです」(ピリピ4章5節)「かの日が近づいている」(ヘブル10章25節)「主の来られるのが近いからです」(ヤコブ5章8節)「万物の終わりが近づきました」(第一ペテロ4章7節)。聖書の認識は「近い」である。同じコップの水を見ても、「もうすぐあふれる」と「まだ大丈夫」に分かれる。「まだ大丈夫」が「まだまだ大丈夫」になり、「まだまだまだ大丈夫」に進み、「絶対大丈夫かもしれない」になり、「自分だけは大丈夫」ともなる。キリストの来臨について言うなら、「まだ来ない」が「まだまだ来ない」となり、「当分来てほしくない」「来なくてもいい」となる。そして現世的世俗的関心に没頭してしまう。だが主は近いのである。

ノアの時代の人々もそうだが、信じたくないことは信じようとしないのである。そして「まだ時間はかかる」という、勝手な時間を生み出し、滅びを招いてしまうのである。岩手県田老町では明治29年の三陸地震津波のとき、全人口の73パーセントにあたる1875人が津波で死亡したと言う。昭和8年にも大津波を経験し甚大な被害を出す。その後、世界最強と謳われる防潮堤を築く(日本の万里の長城と国内外から絶賛されることになる)。1954年には日本でも珍しい「津波警報機」を設置し、津波情報を迅速に伝達するシステムの開発や、避難道路の整備など、津波の恐ろしさを伝える運動をしてきたと言う。ところが住民の反応の問題について、山村氏はこう書いている。「成功例ばかりではない。こうした町ぐるみで津波対策を実施しているにもかかわらず、それに逆行する人たちも出てきた。堤防の外側つまり海岸線に、いくつもの住宅や商店が立ち並び始めたのである。町の人に話を聞くと、津波の恐ろしさをどんなに伝えても『分かった』と言いながら、本当は分かっていない人が増えたのだと言う。海の傍らでなければ仕事にならないと、網小屋だけだったところに住み着いてしまった漁師もいる。『100年に一度の津波を怖がっていたら生きていけない』とうそぶく者がいるのは、話を聞いただけでは本当の怖さが伝わらないことを物語っている。ほかの町から引っ越してきた人に津波の話をしても、『あー、そうですか』と全くの他人事に聞いているという。信じたくないものは信じないのが人間である』。」今紹介したのは東日本大震災以前に書かれた文章である。東日本大震災で田老町はどうなったと思われるだろうか?田老町は今、宮古市に編入されている。宮古市と言えば東日本大震災で甚大な被害を受けた地域。堤防(すなわち防潮堤)を津波は乗り越え、被害を及ぼすことになる。田老町の防潮堤は旧防潮堤と新防潮堤があるのだが、防潮堤と防潮堤の間に浜小屋が立ち始め、市街地として広がっていった。そこは、もちろん東日本大震災の際、津波にのみ込まれてしまい、過去の知恵が生かされなかったという報道がされている。安全だと言われていた地域で被害に遭ってしまったならまだしも、何かやりきれない思いにさせられる。私は、「信じたくないものは信じないのが人間である」という山村氏のことばは重いと思う。このことに関して言えば、「信じたくなくとも、信じなければならないことは信じよう」である。「聖書のことばを、聖書の預言を信じよう」である。聖書の預言はひとつも外れていないのだから。また今日の箇所からは、「キリストのことばを信じよう」である。35節で「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません」と言われているとおりである。これには、キリストが救い主であると信じ、キリストの再臨を待望するということも含まれるだろう。「まだ大丈夫、明日がある、さあ飲み食いしよう」という、悪い意味での気の緩んだ生き方をやめて、背筋を伸ばして、一日一日を大切に生き、みこころを行うことを求め、救い主キリストを待ち望む生き方をしてゆこう。時代は悪くなるだろう。しかし、夕暮れ時に必ず光がある。キリストは再び再臨され、信じ待ち望む者を天の御国に救い入れてくださるのである。キリストとキリストのみことばに人生をかけよう。