前回に続いて、イエスさまによる世の終わりの講話について学びたいと思う。イエスさまは、世の終わりの「苦難の時」について語っておられる。「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、ひどい苦難があるからです」(21節)。これまでの流れを確認するが、弟子たちはイエスさまに対して、世の終わりの前兆としてどのようなものがあるのかを、こっそり尋ねた(3節)。イエスさまは14節までから七つの前兆を語られた。①にせキリストの出現②戦争と戦争のうわさ③ききん④地震⑤迫害⑥教会の背教と腐敗⑦全世界への福音宣教.これらの世の終わりの前兆の講話に続いて、ご自身を信じる者たちが、そのような苦難の中で守られるための知恵を授けられた。それが今日の箇所である。

今日の箇所において、イエスさまは様々な苦難の描写を織り交ぜているが、解釈上、「苦難の時」がいつの時期の苦難を指すのかという問題がある。だれも否定しないのが、紀元70年に起こった、ローマ軍によるエルサレム神殿の破壊と関連があるということである。15節を見てみよう。当時の歴史家ヨセフスは、これはローマ軍のエルサレム征服によって成就したと記している。「荒らすべき憎む者」とはローマ帝国であり、また時の皇帝であるティトスだ、というわけである。紀元66年にユダヤ戦役と言われる戦いが始まるが、この年に神殿が荒らされ、祭司が血を流し、最終的に70年にエルサレムは陥落する。その時、16節の「ユダヤにいる人々は、山に逃げなさい」は成就した。ユダヤ教徒たちは神殿に立て籠もれば救われると信じ、立て籠もってしまったが、クリスチャンたちは、イエスさまのことばを信じて、ヨルダン川を越えてはるかペレヤ地方まで避難したと言われる。19節の「身重の女と乳飲み子を持つ女」の悲惨も文字通り成就した。ローマ兵士がまだエルサレムを包囲しないうちから、市民たちは過激派の熱心党によって、都脱出を禁じられてしまう。17~18節は、一刻を争って脱出しなさいという命令なのだが、イエスさまに耳を貸さないユダヤ教徒たちは、都にとどまってしまう。この戦いで、胎児や赤ん坊をもつ親の苦悩はたいへんなものであった。都内にききんが広まり、飢えのために二千人以上が死んだ。歴史家ヨセフスによると、母親たちは赤ん坊が食べているものまでひったくり、いや赤ん坊まで食べて飢えをしのごうとしたと言う。21節の「ひどい苦難」もある意味、成就した。死亡、捕虜を含めて120万人以上が犠牲になったわけだから。23~26節の「にせキリスト」「にせ預言者」の出現も成就した。ヨセフスは、「横暴者たちから、民衆をだますようにそそのかされた多くの偽預言者たちがいて、彼らは人々に、神の救いを待つべきことを布告した」と書いている。

イエスさまはここで、紀元66年から始まったユダヤ戦役と、その結果、エルサレム神殿が破壊された紀元70年の事件だけを預言しておられるのでないことは確かである。つまり、21世紀を生きる私たちクリスチャンも関係しているということである。

第一に、それは、15節冒頭の接続詞「それゆえ」からわかる。イエスさまは4節から14節まで、文字通りの世の終わりの前兆について語っておられた。まだ世は終わっていない。14節では、全世界への福音宣教について言及されている。だから、「それゆえ」につながる話が、紀元66年から70年までのユダヤ戦役に限定されるはずがない。

第二に、私たちにも関係があるというのは、キリストの再臨の言及があるということ(27,30節)。つまり、苦難の時はまだ終わっていないということになる。

第三に、15節の「荒らす憎むべき者」の出所のダニエル書は、「荒らす憎むべき者」とは、最終的には、ほんとうに世が終わってしまう世の終わりに出現する存在であることを語っているからである。ダニエル書を開いてみよう。11章31節を見よ。「彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える」。この預言はイエスさまが来られる前の紀元前168年に一度成就している。イスラエル人はゼウス神のことを「荒らす憎むべき者」と呼んでいた。シリヤの王アンティオコス・エピファネスはエルサレム神殿にゼウス神の神殿を建て、その上に豚肉を犠牲としてささげ、さらに祭司の部屋と神殿の小部屋を娼婦の部屋としてしまった。では、もう「荒らす憎むべき者」とは過去のものなのかというと、イエスさまは今日の箇所で未来に訪れる存在として語っている。ダニエル書12章1~2節も見よ。ここでも「苦難の時」に言及されている。この苦難の時とは、11章40節の「終わりの時」を受けている。終わりの時を12章1節で「その時」と受けている。この終わりの時を紀元66年から70年までのユダヤ戦役に限定できるのか。できそうもない。というのは12章2節を見ても明らかなように、12章の終わりの時、苦難の時の描写は、死人の復活と最後の審判に関連づけられているからである。だから、「苦難の時」とは、紀元前168年に起きた神殿を冒涜する事件や、紀元70年のエルサレム陥落だけに限定するのではなく、文字通りの最後の最後の終わりの時に訪れると理解しなければならない。

では、イエスさまが24章21節で語られた苦難の時とはいつを指すのか、整理して考えてみよう。実は、苦難の時には五つの解釈がある。

第一、苦難の時とは、ユダヤ戦役から、時代を飛び越え、キリスト再臨前の時代までスキップするという解釈(ここでの預言はユダヤ戦役の描写であるとともに、重ねて、未来の世の終わりの描写でもあり、二重預言となっているという解釈)。

第二、苦難の時とは、エルサレム神殿が廃墟となるユダヤ戦役からキリストの再臨までの期間を指す。つまり苦難の時は、紀元70年頃から今まで、ずーっと二千年近く途切れず続いているという解釈(スキップしない、中断しない。苦難の時はユダヤ戦役から継続して、キリスト再臨時まで続くという解釈)。

第三、苦難の時とは、あくまでもキリスト再臨前の時のことを指し、紀元66~70年の苦難というのは、その予表、予型なのだ。あくまでも苦難の時とは、キリスト再臨と関係した未来に訪れる時なのだという解釈(苦難の時とは、キリスト再臨前の未来限定という解釈)。

第四、苦難の時は紀元66年に始まったが、それは中断し、延期され、残りは終わりの日まで待たなければならないという解釈。苦難の時とは過去と未来の残りを足したものという解釈(イエスさまの預言を二重預言とは考えない。ユダヤ戦役の時代の預言に続いて、再臨前の時代を預言しているという解釈)。

これら四つの解釈に共通することは、どれも苦難の時とは、ユダヤ戦役に限定していないということ。その先の未来の時代を想定している。

第五、苦難の時とは、紀元70頃までのエルサレム破壊の描写であるという解釈(苦難の時はユダヤ戦役で終わっているという、過去の一時代限定の解釈)。以外にも、この解釈を採る人たちを時々みかける。この人たちは、キリスト再臨の言及とみなされる29~31節をどう解釈してしまうのか。明らかに目に見える再臨の言及と思われるのだが。27節もしかり。彼らはこれを字義通り、文字通り解釈しない。比喩的に解釈してしまう。この描写はエルサレム陥落にからむ象徴なのだとしてしまう。こうして苦難の時を過去の一時点に押し込めてしまう。そうすると24章は私たちに関係のない記事になってしまう。彼らの解釈では「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」(29節)は、文字通りの天体現象ではなく、神がさばきをもっておいでになる比喩的表現だとする。「地上のあらゆる種族」(30節)とは、ユダヤ人のあらゆる部族のことであると、ユダヤ人に限定してしまう人もいる。続く、「人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」(30節)は、キリストの目に見える地上再臨とは採らず、キリストが天の父のもとへ行き、権威を受けることへの言及であるという解釈をしたり、キリストの目に見えないかたちでの臨在、支配を意味すると採る。いずれ歴史的転換点の象徴的描写であって、文字通りに採るべきではないとする。しかし、こうした解釈は、30節の「地上のあらゆる種族は・・・<見る>」ということを少しもうまく説明できない。この人たちは、1~14節までの世の終わりの前兆も、ユダヤ戦役までのことに限定してしまう。いずれ、この五番目の解釈を採ることはなはだ困難である。

私たちは、苦難の時とは、私たちにも関係があるという立場に立って、イエスさまの警告を五つに分けて見ていこう。

警告の第一は、「荒らすべき憎む者」の動きに注意する(15節)(ダニエル9章25~27節)。この荒らすべき憎む者とは、エルサレム神殿を破壊したローマ皇帝ティトスとも採れるし、キリスト再臨前に出現する反キリストであるとも採れる。荒らすべき憎む者を神殿の堕落の象徴としていつの時代にもあてはまると受け取る人々もいるが、そうではなく、定められた特定の時に登場する特定の人物と解釈するのが自然である。反キリストに対する警告は、福音書、新約の手紙、黙示録といった新約全般で教えられている。

警告の第二は、必死で逃げる(16節)。パレスチナを通る山脈は、昔からユダヤ人の逃れ場、隠れ場であった。これを私たちへの警告として受け止めた場合、近くに山がない人はどうするんだということではなくて、一刻の猶予も物惜しみしないで逃げるということである。

警告の第三は、世と世のものに対する未練を捨てる(17,18節)。「屋上にいる者」とあるが、ユダヤの家は外階段がついていて屋根に上ることができた。屋根の上から階段で降りてきて、家の中に持ち物を取りに入らず、即、逃げなさい、ということ。また「畑」と「着物」であるが、この着物とは上着のことである。朝の寒い時間帯はこの上着を着て畑仕事をしたが、太陽が昇り暖かくなってくる頃、この上着を脱いで、畑のすみっこにおいて、仕事をした。その上着を取りに戻るなと言われている。これは、この世のものに執着していると命がないぞという警告である。世と世に属するものを淡白に捨てる気持ちがないと、自分を救えないぞ、という警告である。それこそ、ソドムとゴモラのさばきの時に、豊かな持ち物や生活に未練を抱き、逃げる途中ふりかえって塩の柱となってしまったロトの妻を思わなければならない。

警告の第四は、救われるために祈る(20節)。「冬」は寒くて逃げるのに適していない。またユダヤでは、この時期は雨期となるため、雨で道路が冠水してしまう。道路はどろどろのぬかるみになって歩きにくくなる。「安息日」が適しない理由は、この日は物の売り買いができないようにエルサレムの門は閉まってしまう。そうしたら、物質の調達はできないし、運搬用の家畜も買えない。敵にとっては、動きがストップする日ということで、攻撃するにはラッキーな日であった。イエスさまはここで、逃げるのに困難な日にならないように祈ることを許している。私たちはここを読んでわかるように、困難な状況から守られるように、助けを求めて祈ることが許されている。21~22節を読めば、苦難の日数が、選ばれた者のために少なくされることがわかる。主は私たちのために苦難の度合いに制限を設けてくださることがわかる。

警告の第五は、「にせキリスト」「にせ預言者」にだまされないこと(23~27節)。彼らは奇跡も行ってみせる(24節)。しかし、それは必ずしも神のみわざのしるしとならない。にせキリストの特徴は、26節にあるように、あそこに住んでいる、どこどこの何番地にいるというもの。でも真のキリストは、全世界の人にその出現がわかるようなかたちで、衝撃的なかたちで降臨される。「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです」(27節)。にせキリストにはだまされないと思っている人たちも、にせ預言者にはだまされてしまうかもしれない。にせ預言者、いわば「にせ教師」たちは初代教会時代から教会に入り込んできた。彼らは偽りの教えを説く。そして信徒たちはその巧みな弁舌にだまされてしまう。現代も、たくさんのにせ教師が教会に入り込んでいて、偽りを吹き込んでいる。彼らは魅力的人物であることが多く、人好きのする話をする。神からの啓示があったと訴えるかもしれない。それでだまされてしまう。みことばに堅く立ちたい。みことばが何と言っているかがすべてである。

最後に、キリストの再臨の具体的描写に心を留めよう(28~31節)。天の万象が揺り動かされるような天変地異のさなか、キリストはまばゆい栄光を帯びて、来臨される。地上のあらゆる種族が、はっきりと認めるようなかたちで。また、その時、大きなラッパの響きとともに、全世界から選びの民が天の御使いたちによって集められる。「御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます」(31節)。この日は選びの民にとっては救いの日となる。だが、この日は同時にさばきの日でもあることを覚えておかなければならない。「死体のあるところには、はげたかが集まります」(28節)。悔い改めと信仰をもって神に立ち返り、キリストが天から来られることを待ち望む者には御使いが訪れ、悔い改めずして死んだ者の死体にははげたかが集まる。御使いを望むのか、はげたかを望むのか。世の終わりは、自分の葬儀をどうするかと悠長なことを言っている場合ではなくなる。大切なのはキリストを信じ、キリストを待ち望む信仰である。

私たちは世の終わりの数々の前兆を見て、苦難に絶望し、恐れと悩みと不安に沈んでいるだけではいけない。確実に神の時計はキリストの再臨の日に向かって刻まれていく。世の終わりの前兆、苦難の時の警告を心に留めつつ、キリストが再臨し御国が完成する未来に心を向けて、信仰をもって歩んで行こう。