私たちは神の前にはいつもスッピンの心で出ることを心がけなければならないのだが、それもできず、そして人の前ではなおさら自分を取り繕ってしまう弱さがある。そして、自分でも自分の本当の姿がわからなくなってしまう。1節でイエスさまは、これまで論争を仕掛けてきた律法学者、パリサイ人たちの本性を、群衆と弟子たちに向かって語ろうとされているが、しかし、良く見ると、律法学者、パリサイ人たちに向かっても語っておられる。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは」という表現が、23章には7回登場している(最初に13節に登場)。「わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは」という表現もある(16節)。私がクリスチャンに成りたての学生時代、聖書研究祈祷会で信徒が順番で研究発表をしていた時期があった。私は迷わず「偽善」というテーマを選び、この23章を取り扱ったことを昨日のことのように覚えている。

律法学者、パリサイ人たちは、虚栄心から、自分をりっぱに見せようとしていたことがわかる。「彼らのしていることはみな、人に見せるためです」(5節前半)。人に良く見られたいという動機でふるまう。良く見られたいので、アクセサリー、服装に過度な関心を払っていた(5節後半)。「経札」とは、四角小箱で、中には聖書のことばが記された紙きれが入っていた。それを額と左手首につけたのだが、これが敬虔さのしるしとして重んじられた。「衣のふさ」とは外套のへりに付けている青いふさのことで、神の民のしるしとして重んじられていた。「経札」も「衣のふさ」も、どちらも旧約聖書に由来するもので、神さまと神さまの戒めを常に覚えるためのものであるから、それ自体はどうこう言うことではないのだが、それを目立たせて、自分を敬虔そうに見せるためのものにしてしまっていたので、非難されている。

次に彼らは、自分をりっぱに見せるために権威付けにこだわっている(6,7節)。「上座」は確固たる地位のシンボル。後ろの席には子どもたちや地位の低い人が座り、前の席に行くほど、地位の高い人が座った。一番の上座は誰からも見られる位置にあり、自分を印象づけるにはもってこいの場所であった。とにかく、ほめそやされたい。7~10節では「先生、父、師」という呼び名が戒められているように受け取れるが、単純に、そうではないので、簡単に説明しておく。9節で「あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません」とあるが、男親のことを父と呼ぶだろう。実は日本語で、「先生、父、師」と訳されている原語は、当時の名のある称号。これらの称号で呼ばれる人は親よりも誰よりも尊敬されるべきだと、パリサイ人たち自身が言っていた。そうした称号へのこだわりはバカバカしいということ。

さらに彼らは、見栄を飾るためのふるまいをしていた(14節)。彼らは、別にやもめのことを心配しているというのではなくて、社会の弱者も、自分を良くみせるために利用できる、ということだろうか。一見して良いふるまいも、自分を良く見せるためのパフォーマンスに過ぎなかった。

その上、彼らは、悪人呼ばわりされないために、うそを巧妙にごまかしていた(16~22節)。16節を見るだけで、とりあえずそれがわかる。彼らは「誓います」と良く口にして、誠実さを装ったが、破ってもいい誓いを考案した。破ってもいい誓いなんてことばの矛盾である。誓いを破ったのなら、普通はうそつきにされるのだが、それがうそと言われないために、破ってもいい誓いを考案した。彼らは非難されないために、あらかじめ、善を装った手の込んだ防御線を張っておいた。あとで言い訳ができた。

イエスさまは「偽善」ということばを連発して使っているが、この原語は、仮面をつけて演技をする役者を表わしていた。私たち罪人は人前で演じているうちに、どれが本当の自分なのか、自分でもわからなくなってきてしまう。そして自分を善人だと思い込む。おそらく、パリサイ人たちがそうではなかったかと思う。

自分の姿を正しく知るために、二つのことを取り上げてみたい。第一に、神にあって自分の動機を良く調べ上げることである。たとえば、正しい行いをしようとする人の場合のことを考えてみよう。なぜ正しいことをしようとするのか。六種類の人をあげてみよう。最初の人は、自分が他の人より優れていると見られたいために、手柄と評判のためにそうする。二番目の人は、利得という報酬のためにそうする。三番目の人は、寵愛、愛顧、そうしたものを勝ち取るためにする。四番目の人は、法の処罰を恐れてそうする。五番目の人は、地位の失墜を恐れてそうする。六番目の人は、悪事をたくらみ、相手を自分の味方につけておくためにそうする。その他もあるだろう。以上は、見たところはどれも正しく見える。その行いは善いものとして表れてくる。でも誠実と正義のためではない。自分のためである。動機でそれがわかるのである。私たちは仮面の下にあるものを見る勇気を持ちたい。普段の私たちは自分のうわべばかり気にし、自分の内側にはむとんちゃくである。だから次のように祈りたい。「神さま。あなたの光によって私の心を照らしてください。私のうちにある汚れを、あなたの光の中で露わにしてください」。

自分の姿を正しく知るために次のことは、みことばと真正面から向き合うことである。みことばは私たちの姿を写し出す鏡である。私たちは、みことばを通して自分の姿を正しく知り、神の前に貧しい心にならなければならない。自分さえも欺き、自分の罪を素直に認めないでいるなら、きよめも、成長も何もない。ある人は言った。「友よ。自分を善人だと考えている人間には注意することだ。自分が善いと思い込んでいるときこそ、最悪なことが多いものだ」。自分の罪がわからないというのは不気味。自分の罪を認めると、くやしい気持ちになり、不安になり、落ち込み、敗北感を味わい、それをしたくない。けれども、そこを通過しない限り、本当の意味での明日はない。

自分の姿を正しく知るために自分の内面と向き合うことになるのだが、パリサイ人たちは反対で、彼らが注意深かったのは外面であった(23,24節)。「ぶよ、はこして除く」の「ぶよ」とは、ぶどうを醸造中にたかってくる蚊やぶよのような小さな虫のことで、小さな規則、決まり事の比喩として言われている。つまり彼らは、ぶよのように小さな外面的規則、決まり事を守ることに神経過敏で神経質であった。ところが「正義、あわれみ、誠実」といった、人としの本義については無神経であった。それがパレスチナで一番大きい「らくだは飲み込んでいる」という批判の意味するところである。

外面ばかりにこだわるという批判は続く(25~28節)。25,26節では杯の内側と外側という対比で忠告している。27節は白く塗った墓の外側と内側の対比で忠告している。当時、墓に触れると汚れるとされていたので、誤って墓に触れないように、墓は白く塗られていた。外側は美しく見える墓、しかし内側は対照的に目にしたくない汚れがいっぱい満ちていた。「そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」(28節)。キリストは内側に注意を向けさせている。私たちは、日々、そこに関心を払わなければならない。目をそむけずに。臭いものに蓋をしてしまうことなく。むしろ、それをこじあけて、そこに何があるのかを見ていく勇気が必要になってくる。そのために、心の地下に潜るという表現もとれるかもしれない。そして、その暗やみに存在する古いもの、汚いもの、うごめくものを見る作業をするのである。これはエネルギーがいるかもしれない。けれども避けては通れない作業である。自分を正しく知るために。

さて、私たちは普段、エネルギーをどこに使っているかというのなら、自分を点検するためにではなく、他人に使っている。次のことばは本当である。「われわれは自分自身の中に潜む利己主義と不完全さと戦うべきなのであり、他者のそれと戦うべきではない。思いにおいて、ことば、行動において他を裁くエネルギーの十分の一でも自分を裁くことに使えば、世界は今よりはるかによくなり、人間らしいものとなるだろう」。偽善者の特徴の一つは、自分のことは棚に上げて、人を非難することに長けているということである。参考としてマタイ7章3~5節を見よ。ある方は次のように語っている。「聖者は他を裁くということがないが、偽りの聖者は機会あるごとに人を裁こうとする。本物と偽物を見分ける格好の試金石が、まさにここにある」。イエスさまは、5節で言われているように、人を裁くエネルギーを自分に向けるように言われている。

私たちは自分の内面を知ったらどうしたらいいだろうか。そこに醜いものを見たらどうしたらいいだろうか。私たち自身のうちに、その醜いものをコントロールする力はない。コントロールしようとすればするほど、底なし沼でただもがいているようなみじめな様になってしまう。肉に対して無力な自分を知らされるだけである。私たちは救っていただくしかない。誰に?主イエスにである。私たちは助けていただくしかない。誰に?主イエスの御霊にである。まず、私たちは自己開示して、すべての罪、愚かさを主の前に差し出さなければならない。それはお店で物を取った子どもにたとえることができるだろう。「ポケットにあるものを出しなさい!」。チューインガム、キャラメル・・・。「それで全部?」チョコレート・・・。「まだあるんじゃないの?」キャンディ。「これで全部、ごめんなさい」。これがすなわち、悔い改めである。主イエスは血潮でその罪を赦し、きよめてくださるだろう。キリストの血潮は罪を赦しきよめる力である。そして聖霊の助けをいただいて、内側から聖霊の支配をいただいて生活を送っていくのである。聖霊が私たちに新しい心を造ってくださり、主のみこころを行う力を与えてくださる。聖霊の助けを常に仰ごう。

しかし、順番としては、自分の内側のものを認めるということから始めなければ、その先はない。私たちは自分の内側の醜いものをぼんやりとは見ている。でもはっきりと見ることは恐れ、そこで止まってしまうこともある。場合によっては、いつまでもその存在に気づけないということもある。私たちは自分の内側を見る訓練、すなわち内省を習慣づけたい。

外面で善人を装うことにはやがて限界が来る。やがて、すべての人がさばきの座に立たなければならない時が来る。その時、外面ははがされる。外面で道徳的理性的人間を装っていても、本人の異常性が露わになる。神はみことばの光によって外面をはがし、みことばの剣で内面を刺し通し、調べ上げる。だれがこの調べに耐えられるだろうか.「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」(ヘブル4章12,13節)。人間には白く塗った墓のように二重構造がある。外面と内面があって、それは大きく違っている。犯罪事件で多くの場合、あの善良そうな市民が、と良く言われる。けれども驚くことではない。人の多くが二重構造をもっている。内面は悪辣であっても、外面を人に良く見せて暮らすことができる。内面では悪意を抱いていても、外面ではおべっかを使うことができる。内面では苦々しい思いでいても、外面は親切さを装うことはできる。ところが、死んで神の前に立たされるとき、外面は取り払われる。つまり、その人本来のありのままの姿でしかいれない。すべてがむき出しにされ、裸にされる。もはや装いは効かない。正しい行いも見栄のためにしてきたことがバレる。エゴの醜い内部人間がさらされる。外面で装い、偽って身に着けていた善や正しさは取り去られ、黒い本性をむき出しにされる。外面で望む通りの悪を行わなかったのは、法律違反になるからとか、名誉名声のためとか、損得のためで、内面は悪であることがバレる。実は、地獄に行きたくないから善いことをする、天国に行きたいから善いことをする、というのも、利己的な動機である。多くの人はそれに気づいていない。外面が取り払われ、その人の霊でもある内面が露わになると、悪と偽り、欲情などが露呈され、自分の本来の姿に驚愕することになるだろう。天の光に耐えられない痛みを覚えるかもしれない。もうそこでは偽善はいっさい通用しない。

私たちは元来罪人にすぎない。だが覚えておきたいことは、罪の中でも、自分をりっぱに見せようと装う偽善の罪は、マタイ23章から教えられるように、非常に重い罪の部類に入るということ。自己中心で高慢なサタンの霊性に通じる罪である。だから、自分の姿を正しく知り、悔い改めるべきことは悔い改め、キリストの血潮と聖霊に拠り頼む生活を心がけたい。そして、善を行うというときは、単純に、「隣人の善のために善を行う」ということ。また、「神のために、しかも、神とともに、神の力で隣人に善を行う」ということ。そこには、自分をよく見せたいとか、自分の行いを功績として認めてもらおうといった不純な動機はない。人為的な匂いはいっさいない。それこそが主イエス・キリストが求めていることである。