聖書において、神を愛することが人間の本分とされている。では、神を愛するとは具体的にどういうことだろうか。当時のユダヤ教のリーダーたちは、神の御目にかなう答えを持っていなかった。現代の私たちも同じかもしれない。イエスさまは今日の箇所で、私たちが見落としがちな盲点をついている。

イエスさまが都入りしてから、イエスさまの敵対者たちは次々にイエスさまの前に現れ、非難のことばや難問疑問を投げかける。祭司長、民の長老たち╱パリサイ人たち(21章23節)、パリサイ人たちとヘロデ党の者たち(22章15,16節)、サドカイ人たち(22章23節)、彼らはイエスさまを前に敗北してしまう。パリサイ人たちは、今度こそやり込めてみせると、集まって策を練る。「しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人を黙らせたと聞いて、いっしょに集まった」(34節)。結果、またしても敗北をみる。「それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問する者はなかった」(46節)。

では、事を順序立てて見ていこう。パリサイ人の中のひとりの律法の専門家が、イエスさまをためそうとした(35節)。「ためそうとして」というのは、イエスの学力はどの程度のものなのかためしてやろう、程度のことではなく、罠にはめて非難の材料を見つけて、評判を落としてやろうといういじの悪いものである。その罠となる質問とは、「先生、律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」(36節)。なぜこれが罠となる質問になるのかは、追って説明したい。

パリサイ派の学者は、モーセの律法を分析して、248の積極的命令と、365の禁止命令があると判断していた。合計では248プラス365で613の戒めとなる。その613の戒めのうち、イエスはどの戒めを一番大切にするのか、ということになる。 律法のどれも無視していいというものではない。神のみことばであるから、みな大切である(5章18~19節を見よ)。律法はみな大切であるが、律法の中で特に重んじなければならないものもあるということも確かである(23章23節を見よ)。だから、「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」という質問は、おかしいものではない。しかし、なぜこの質問が罠になるのだろうか。

イエスさまは律法の中で一番大切な戒めとして、まず、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(37節)を提示する。この戒めは申命記からの引用である。申命記6章4~9節を見よ。「聞きなさい」で始まるこの戒めは、ユダヤ人の間では「シェマ」として知られていた。「聞きなさい」のヘブル語が「シェマ」だからである。ユダヤ人たちは6,7節で、心に刻み、いつも唱えているように命じられているので、安息日の礼拝の中で、必ずこのシェマを告白していた。そして日に二回はこのシェマを唱えていたという。そしてパリサイ人たちは8,9節で手と額にこの戒めを付け、家の門にも付けるように命じられているので、これを文字通り、実行していた。彼らは門の右柱にシェマを記し、シェマを書いた紙きれが入っている箱を手と額に結びつけていた。マタイ23章5節を見よ。「経札」(きょうふだ)という表現がある。パリサイ人たちは、シェマを書いた紙きれが納まっている箱を、ひもで、額と左手首に結びつけていた。その箱が「経札」というものである。イエスさまの目の前に立っているパリサイ人たちも、この経札を身に着けていただろう。彼らは経札を見ながら、「心を尽くし…」と唱えていた。イエスさまの時代にあって、一番大切な戒めとして理解されていたのはシェマであった。

さて、パリサイ人たちは、大切な戒めとして、イエスさまがどれを言うことを予測していただろうか。もし、イエスさまがシェマ以外の戒めを口にしたら、なぜシェマを言わないのかと非難できただろう。しかしパリサイ人たちは、イエスさまがシェマを言うことを予測していたのではないだろうか。というよりも期待していたと言っていいかもしれない。もしイエスが「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と答えたら、我らの思うつぼだと。もしイエスさまが「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と答えてしまったら、「イエスよ。お前は神殿で乱暴狼藉を働いた。神を愛する者がやることではない。」「イエスよ。お前は先祖たちが律法に基づいて作った伝統的慣習を守ろうとしない。平気で破っている。それが神を愛する者のやることなのか」。こうしてイエスさまを、神を愛していない異端児扱いすることができた。

イエスさまは、彼らが仕掛けた罠にまんまとはまってしまったのだろうか。だが、そこはイエスさまである。彼らに攻撃する隙を与えずに、間髪入れずに、第一の戒めと同じように大切な戒めを付け加えられる。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(39節)。この第二の戒めはレビ記19章18節の引用である。この第一の戒めと第二の戒めの関係であるが、イエスさまは第二の戒めは「それと同じように大切です」(39節後半)と言われているが、第二の戒めは第一の戒めと切り離せない。第二の戒めは第一の戒めの意味を説き明かす戒めともなっている。神への愛は、神の愛の対象である人々を、神が愛するように愛することで量られる。神への愛は隣人愛で実証されるということ。そのヒントとなる似たような表現を使徒ヨハネは使っている。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(第一ヨハネ4章20節)。

イエスさまは神への愛をどのようにして証明されただろうか。イエスさまは、パリサイ人たちはおろそかにしていた盲人、足の悪い人、病人にいやしの手を差し伸べられた。またパリサイ人たちが罪悪人呼ばわりしていた収税人、遊女たちにも救いの手を差し伸べた。さらにはパリサイ人たちが敵呼ばわりしてつきあわなかったサマリヤ人や異邦人にも救いの手を差し伸べた。イエスさまはご自分の近くにいる人々を分け隔てなく愛された。当時、低い価値しか与えられていなかった子どもたちがそばに来たとき祝福された。こうしたことによって、イエスさまは神を愛されていることを実証された。十字架上では隣に磔になっている強盗にパラダイスを約束された。イエスさまが神を愛しておられなかったのではないことは、第二の戒めを実践したことによって明白である。

当時のユダヤ人は、隣人愛は大切であるという認識はもってはいた。しかし「隣人」というとき、仲間、同胞といった抽象的な観念でしか「隣人」という存在をとらえていなかった。またそばにいても、不快な存在を隣人として認識できなかった。生まれつきの盲人、取税人、ごろつきども、異邦人。異邦人にあっては、たといそばにいても隣人ではなく、憎んでよい敵とみなされていた。パリサイ人たちの隣人の理解は、さらに狭かったと言ってよい。「パリサイ」ということばは「分離」ということばから派生したと言われているが、彼らは分離派として、同胞のユダヤ人たちに対しても孤高の態度をとった。彼らは、自分たちのような高い信仰を誓わない一般大衆を「アム・ハーアーレツ」(無学の衆)と呼んで軽蔑した。パリサイ人たちはヨハネ7章49節で、次のようなことばを吐いている。「律法を知らないこの群衆はのろわれている」。一般大衆を軽蔑するぐらいなので、この一般大衆にも軽蔑されているような人々と付き合うことは一切なかった。だからイエスさまが罪人、取税人と呼ばれている人々と付き合い、いっしょに食事をしているのを見たときは、「どうして汚れた連中と付き合うのか」と言って非難したわけである。このように彼らは、周囲の人たちを愛していないことによって、神を愛していないことをおのずから示していた。二つの重要な戒めに関する彼らの解釈の誤りは二つ。第一の戒めと第二の戒めを切り離して解釈していたこと。二つめは「隣人」の定義を非常にせばめてしまっていたこと。彼らは、第一の戒めと第二の戒めを切り離してしまい、律法を守らない輩から離れていることこそが、神を愛し敬う者としてふさわしい姿勢だと思い込んでいた。イエスさまは40節において、「律法全体と預言者とが(すなわち聖書全体が)、この二つの戒めにかかっている」と宣言された。すなわち聖書を要約すれば、この二つの戒めになると。イエスさまの答え自体、完璧だった。

このところまでから教えられることは、神への愛は、神が愛する人々を愛することによって証明されるものだということである。神を愛すると言う者は隣人をも愛するだろう。神への愛と隣人への愛は切り離せない関係にある。私たちはこの世から自らを分離して孤高の人として歩むのではなく、世の人に仕える道を選択したい。そして「隣人」ということばを抽象的にとらえずに、自分の近くにいる有形の具体的存在として認識すべきである。前の家の人、隣の家の人、近所の人、同じ階の人、上の階の人、下の階の人、同じ空間にいる人、そばにいる人、見かけた人…。そうした範疇には性格の合わない人、宗教が違う人、価値観が合わない人、心がざらついていてつきあいにくい人等、様々。でも、隣人であることには違いない。関係をもたないほうが楽でいいという本音に負けるべきではない。

さて、神への愛は隣人愛によって量られることを見てきたが、神への愛を量るものが、実はもうひとつある。それは、主イエス・キリストへの服従を通して示されるということである。そのことが41~46節で教えられる。イエスさまは時を改めて、ご自分からパリサイ人たちに尋ねられている(41節)。イエスさまの質問とは、「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか」(42節前半)。イエスさまはここで、キリストと呼ばれるメシヤの素性、本性、メシヤは人間の子か神の子か、メシヤは人か神かという、人格の正体を問題にしている。パリサイ人たちは「ダビデの子です」(42節後半)と答えている。つまり、「ダビデ王という人間の子孫です」という答えである。確かにキリストはダビデの子孫であることにまちがいない。そう預言されているので。しかしキリストの人格の正体は?イエスさまは詩編101篇1節を引用して、ダビデ王がキリストを「わたしの主」と呼んでいる事実を突きつける(43~45節)。「主」とは聖書の用法で「神」を表わす用語の一つである。キリストの人格の正体は主なる神である。キリストが主なる神であるならば、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」の、その主とは、イエス・キリストのことになる。イエス・キリストは主なる神として、愛の対象なのである。ご存じのように、パリサイ人たちは、イエスさまに対して敵意むき出しで、この頃はすでに殺人計画まで練っていた。彼らは隣人を愛していないだけではなく、このことにおいても、神を愛していないことを証明していた。むしろ、神を憎む者であった。

まとめよう。神を愛するとは、隣人を愛することが意味として含まれる。偶像を拝まないというだけであったらパリサイ人たちも実践していた。神を愛するとは、隣人を愛することなのである。新約時代においてそれは、兄弟姉妹を愛することも含まれる。そして神を愛するとは、イエス、キリストを愛することである。それは、イエス・キリストへの服従によって示される。もし、その人が神の名を口にしたとしても、イエス・キリストに無関心であったり、従う意志がないならば、その愛はニセモノであろう。神への愛は隣人とイエス・キリストに対する態度によって実証されるのである。私たちは真に神を愛する者たちでありたい。