死んだらどうなるのだろうと考えるのが人間である。すべてが消滅して何もなくなってしまうと考える人もいる。かと思えば、霊魂だけは不滅だと考える人もいる。または、この地上の生活と同じような生活があの世でも続くだろうと思っている人もいる。では、聖書はどう語っているのだろうか?先に挙げた意見のどれとも異なっている。今日の箇所では、神を信ずる者たちが死んだ後にどのようになるのかという未来について、キリストが教えておられる。発端はサドカイ人たちの質問にあった。では見ていこう。

「その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが…」(23節)。この日の最初の質問者たちはパリサイ人に連れられてきたヘロデ党の者たちであった(16節)。今度は「サドカイ人」である。彼らは復活否定派である。ここで言う復活とは、信者の死者からの復活のことである。サドカイ人たちは、人間は死んだら終わり、復活とか霊とかはないと主張していた。「サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである」(使徒23章8節)。サドカイ人たちはユダヤ教の一派であったが、なぜか復活も霊の存在も信じていなかった。人間は死んだら終わり、何もないである。しかし、パリサイ人たちは、たましい、霊の存在を信じ、死後も霊は存在し続け、その霊はからだをいつか取り戻す、すなわち復活すると信じていた。これがユダヤ人の一般的な死生観であった。それは聖書から来ていたわけである。霊とからだが合わさって、はじめて真の人間である。だから死後、霊だけでずーっと有り続けるとは考えない。日本人の場合はギリシャ人のように、霊魂不滅説を説いて、からだのことは言わない。霊魂はやがてからだを取り戻すとは考えない。聖書の語る救いは、霊魂の救いだけを言うのではなく、霊魂だけでは中途半端な人間なので、からだを取り戻す救いを言っている。そのからだとは、このやがて朽ち果てる肉のからだのことではない。この疲れ、病にかかり、老化し、死で終わるからだのことではなく、御国仕様のからだと言おうか、それは御霊のからだであり、御国で生きる朽ちないからだ、栄光のからだのことである(第一コリント15章)。

サドカイ人はユダヤ教に属しながら、なぜか復活も霊も信じない。彼らはどちらかというと政治団体のようなところがあり、時の権力にかしずいて生き延びようとする世俗主義者たちであった。この時代では、ローマ皇帝の庇護にもと、自分たちの権勢を保とうとしていた。その点でもローマ帝国に対抗していたパリサイ人たちとは反対。サドカイ人たちは、当時のイスラエルの最高議会サンヘドリンの議員の大半を占めていた。そして代々、祭司を務めてきた。大祭司たちはみなサドカイ人である。「サドカイ」ということばは、ダビデ王の時代に祭司であった「ツァドク」に由来する(第一列王1章8節等)。祭司の家系なので、当然、神殿で仕えていたし、聖書を信じるとしてきた。しかし、彼らの信じる聖書とはモーセ五書に限定されていた(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)。ヨシュア記以降の歴史書は信じないし、詩編も預言書も、もちろん信じない。だから彼らは24節で、「モーセは」と、自分たちが信じるモーセ律法に訴えて、復活はないことを論じようとしてきた。「復活があると言ってしまったら、モーセ律法に書いてあることと、かみ合わなくなってしまうでしょ?」ということ。けれども、彼らは、この後、イエスさまから聖書解釈のまちがいを指摘されることになる。彼らは異教の教えの影響を受けてしまったと言われている。旧約聖書が書かれた後に入ってきたペルシャの教えの影響を強く受けてしまったとも言われている。それは当時にあって流行の教えであったと言われる。流行に乗るのは慎重に。

実は、この後のイエスさまが語る復活の教えに耳を傾けなければならないのは、パリサイ人たちも同じである。なぜだろうか?パリサイ人たちは復活を信じていたのではないだろうか?彼らは人は死んだら終わりのサドカイ人の立場にも立っていないし、ただの霊魂不滅を信じるギリシャ人や日本人の立場にも立っていない。けれどもパリサイ人たちの復活論は幼稚であった。彼らは復活を信じるも、御国でからだをいただいて、今の地上での暮らしの延長線上のような暮らしを想像する者が多かったからである。イエスさまの復活論に耳を傾けなければならないのは私たち信者も同じである。幽霊のような姿しか考えない人や、地上の延長線上のような暮らし程度の理解でいる人もいるからである。

では、サドカイ人の質問を見ていこう(24~28節)。これはレビラート婚がらみの質問である。レビラート婚とは、申命記25章5~10節にある。それは、夫が子どもを産む前に死んでしまった場合、夫の後継ぎが途絶えないようにするために、その夫の弟が兄嫁と結婚して子どもを産み、生まれてくる子どもを兄の後継ぎにするという制度。このレビラート婚制度において、めったには起こらないが可能性はゼロではないことをサドカイ人は口にする。長男が子どもをもうけないまま死んだので、次男が兄嫁と結婚するが、次男も死んでしまい、同じことの繰り返しが七人兄弟に繰り返される。レビラート婚適用の制度では、女は、夫とその兄弟、計七人と結婚するはめになる。旧約外典のトビト書では、一人の女奴隷が七人の男に嫁ぐ物語があるが、そうしたユダヤの物語も背景にあると思われる。サドカイ人の質問は、もしパリサイ人のような復活観に立った場合、復活の際、その女は七人兄弟の誰の妻になればいいんですか?という質問。イエスさまは、「う~ん、そうだね。七人兄弟でバトルを繰り広げればいいんじゃないの?妻の争奪戦だよ」とは言われなかった。「もちろん、長男の妻になるのだよ」とも言われなかった。「日曜は長男の妻、月曜は次男の妻という風に、一週間は七日あるんだから日替わり制だよ」とも言われなかった。また、「あくまでも女に選択権があるんだよ」とも言われなかった。「じゃあ、不公平がないように、あとで文句が出ないように、くじ引きにして、誰の妻になるか決めようか」とも言われなかった。質問自体がばかばかしい。サドカイ人もそれはわかっている。サドカイ人からすれば、「ばかばかしい話でしょ。だから復活はないんだ」と言いたかった。復活は、不合理なもの、ばかばかしいもの、愚にもつかないもの、そう言いたかった。

ではサドカイ人に対するイエスさまの返答を見よう。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」(29節)。まず第一に、「聖書を知らない」と言われている。すなわち彼らは聖書を正しく解釈できていない。パリサイ人たちの場合は、ローマカトリックと同じように、人間の伝承に聖書と同じレベルの権威を与えていた。ミシュナーといった律法解釈の書を、聖書と同等に扱った。けれどもサドカイ人たちは、聖書だけ、聖書のみ、とこだわりをみせたようであったが、こだわりすぎというか偏見で、モーセ五書しか聖書と認めなかった。行き過ぎたとしても、そのこだわりは一応、認めるとして、問題は聖書解釈。先に参照として読んだ使徒の働き23章では、サドカイ人は御使いの存在も認めないことが言われていたが、御使いの言及はモーセ五書の一番最初の書の創世記に幾度もある。なのに、御使いの存在すら認めない。結局、彼らは、信じたくないことは信じたくない、信じられないことは信じられないと、自分たちが信じられるところしか汲み取っていなかった。現代も、霊の存在を信じない、奇跡を信じない、現代科学と矛盾するように思えることは信じない、そう言って合理主義的な解釈しかしない人たちがいる。理路整然と人間の頭で納得できることしか信じない。聖書の前に不誠実な人たちである。

第二に、彼らは「神の力を知らない」。神の力ということであるが、ユダヤ人の伝統的見解には、神の力は復活によって最も明瞭に現されるというものがあった。イエスさまは明らかに復活との関連で、「神の力」という表現を用いている。実は、復活の関連用語が24節で使われていた。ユダヤ人にとって結婚とは「子をもうける」ことであった。ここで「もうける」と訳されていることばは、「起こす、よみがえらせる、復活させる」という意味のことばで、名詞にすると、文字通り、「復活」または「起こすこと」となる(23節参照)。24節後半を直訳すると、「兄のための子を起こさなければならない」。何を言いたいかというと、サドカイ人たちは、人間を起こす手段は生殖によるしかないと思い込んでいた。彼らは科学的合理主義者たちなので、神さまが死人をよみがえらせ人間が起こされるとは考えなかった。神さまが死人を復活させることによって人間を起こすとは考えなかった。なぜか?神の力をみくびっていたからである。神の力に制限をもうけてしまっていた。「生殖という手段によってしか人間は起きないよ。神にはできるとは思えないね。」だが真実は、神は復活という手段によって人間を起こせる。神は全能者であられるから、死者をよみがえらせることがおできになる、ということである。イエスさまはこうして死者の復活を信じさせようとしている。後にイエスさまはご自身の復活によって、神の全能の力を証明してみせる。バプテスマのヨハネは、神の全能の力を信じる信仰があり、パリサイ人やサドカイ人が大ぜい集まってきた時、「「あなたがたに言っておくが、神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」(3章9節)と言っておられる。

イエスさまはサドカイ人たちの質問に、まだ完全に答えていない。それは、死者の復活があるとしたら、先の女は七人兄弟の誰と結婚しなければならないのかということである。裁判所で決着をつけてもらうしかないのか?イエスさまは続く30節では、幼稚な復活観を否定される。「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いのようです」。「復活の時には」と、諸世紀にわたって亡くなった信仰者たちが起きる時が来る、復活する時が来る、ということが前提になっている。復活はある。「復活の時」はいつなのかということだが、御国が完成する日に起きる義人の復活の時のことを指していると思われる。マルタも弟ラザロが死んだ時、この事について言及している。「マルタはイエスに言った。『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。』」(ヨハネ11章24節)。ユダヤ人たちの多くはこの復活を信じていたが、御国が到来して、よみがえるその時、御国では結婚も現世と同様であると想像していた。その誤りが「めとることも、とつぐこともなく」という主のことばを生み出した。御国では冠婚葬祭はもはやない。それをわからせるために、「御使いのように」とモデルを挙げている。御使いは死ぬことがないので子どもをもうける必要がない。という以前に、御使いは結婚をしないわけだが。結婚、出産、死亡のような変化は御国ではない。私たちは地上でやっていることは何でも御国でやっていると想像してはならない。結婚がないということは、この地上での血縁関係、家族構成もない。御国は結婚から生み出された血縁関係からくるつきあいに縛られ、制約を受け、気兼ねしつつ人間関係を営むという、そういう世界ではない。血の結びつきを超えた信仰の結びつきの世界。それを、この地上で予行練習をしている。神の家族として。生まれも育ちも違う私たちが、互いに神の家族として、兄弟姉妹として生活しているわけである。御国では冠婚葬祭でつきあいが回る世界ではないし、かと言って、隣の人は何をする人ぞと、自分たちの世界にこもってつきあいが薄い世界でもない。血縁の壁は取り払われ、愛の共同体として互いに分け隔てなく愛し合い、仕え合い、主なる神を中心に生きる世界。姿もだが、生活様式も御使いに似た者となる。レベルが違う。

最後に、イエスさまは、モーセ五書に復活の証拠はないと思い込んでいるサドカイ人たちに対して、モーセ五書から復活の証拠を挙げようとしている(31,32節)。イエスさまが引用したモーセ五書の箇所は出エジプト3章6節で、シナイ山のホレブで、主なる神がモーセに現れた場面である。ユダヤ人は「アブラハム、イサク、ヤコブの神よ」と祈る習慣があったので、そういう意味でもなじみのある表現である。この引用において注目すべき表現は、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」の「ある」という動詞である。「あった」と過去形で言われていない。「ある」と現在形で言われている。つまり、今もアブラハム、イサク、ヤコブの神である、ということ。神は、アブラハム、イサク、ヤコブと今も交流があるということ。アブラハム、イサク、ヤコブが死んだ数百年後のモーセの時代になっても、アブラハム、イサク、ヤコブは生きていて、永遠のいのちの神との交わりを続けているということ。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」。

ある方はここで、イエスさまは、ユダヤ人の父祖たちが今も生きているということを証明しているだけで、からだをもっての復活については何もふれていないと言われるかもしれない。問題は、イエスさまは誰たちに語っているのかということ。ユダヤ人たちに語っている。「生きている」と聞いて、ユダヤ人たちがその延長線上に思い浮かべるのは、からだをもつ人間存在。サドカイ人、パリサイ人関係なく、ユダヤ人にとって生きるとは、からだをもって生きることであった。それくらいからだを重視していた。神さまが人を生かす場合、からだを与えないはずはない、という信念があった。サドカイ人にとっても、生きるとはからだをもって生きることであった。ただサドカイ人の場合は、生きるとはこの地上の今の人生だけと限定してしまっていた。生きるとはからだをもって生きること。それは聖書の教えであった。生きるとはからだをもって生きることというのがユダヤ人にとっては当たり前のことだから、ここで、からだのことも頭に入れてくださいよ、といちいち説明はいらない。お風呂から上がったら裸のままでいないで、ほどなくしてパジャマを着るのが自然なように、神さまから永遠のいのちをいただいた人は、やがてからだをまとうのが自然なのである。生きるとはからだをもつことなのである。今、皆さんは、ご自分のからだを嘆いているだろう。私も何度嘆いたかわからない。内臓に問題があるとか、足腰がどうだとか、頭と顔の付近がどうだとか、皮膚がどうだとか。しかし、そうした悩みはやがて消え去り、栄光のからだをまとうことになる。復活のからだをもつ。それは永遠に朽ちないからだである。それは血肉のからだではなく御霊のからである。

神が人間を救うというとき、たましいだけの救いを考えてはおられない。人間とは、たましいとからだの統合体。神は両方の救いを成し遂げてくださる。別の表現を取れば、人間を全体的に救われる。たましいだけの救いは片手落ち。からだあっての人間だから。

聖書はただの霊魂不滅は言わない。からだをもっての復活を説く。キリストを信じる者たちは、キリスト再臨後のいつかの時点で、御国仕様のからだとして、復活のからだに与る。しかも、一人一人の存在と、その尊厳、生活様式は、御使いのようになる。御使いのもつ高貴さ、力と優しさを併せ持った表情、聖なる愛、神への献身と賛美、迅速な行動、他者を分け隔てなく愛する愛、そうしたすべてが私たちに分け与えられることを想起させる。私たちはやがて、たましいもからだも完全な救いに与り、御国での生活を営むのである。その希望を確かなものとしよう。